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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第134章 割腹の夢 ― 血の哲学



 ――風が、紙を裂く音を立てていた。

 窓の外では、冬の陽が薄く光を散らしている。

 机の上に、未完の原稿。

 その紙に滲む赤は、インクではなかった。


 真澄は、ゆっくりと顔を上げた。

 そこは見知らぬ部屋。

 天井は低く、壁には日の丸と軍旗が掲げられていた。

 机の向こうに、四人の制服姿の男たちが沈黙している。


 ――市ヶ谷駐屯地。

 1970年11月25日。


 胸の鼓動が、まるで別人のもののように高鳴っていた。

 腕を見ると、軍服の袖。

 血の通った筋肉、震える指先。

 鏡の中には、自分ではない“男”の顔があった。


 三島由紀夫。


 時間は異様に遅かった。

 窓の外で、兵士たちのざわめきが遠く響く。

 拡声器から怒号が飛ぶ。

 「降りろ!」

 「ふざけるな!」


 だが、その声はまるで別の世界の音のように遠い。

 ここでは、時間そのものが止まっていた。


 机の上の原稿用紙に、彼――いや、“私”は筆を走らせる。

 《檄》。

 国家、肉体、精神、そして美。

 最後の言葉が書かれたとき、

 手の震えが完全に止まった。


 真澄は悟った。

 ――これは夢ではない。

 私は、彼の身体の中にいる。


 部屋の隅で、森田が立っていた。

 白い顔、濡れた額、握り締めた短刀。

 彼の眼には涙と決意が入り混じっていた。


「先生……もう、時間です。」


 その声は、静かな祈りのようだった。

 私はゆっくりと立ち上がる。

 机の上の軍刀を手に取る。

 鉄の冷たさが掌に吸いつく。


「森田。

人間が生きるということは、形を保つ努力だ。

だが、形はいつか崩れる。

だから私は、崩れる前に自らの手で形を完成させる。」


 森田が泣きながらうなずく。

 私たちは、互いの瞳を見つめた。

 その一瞬に、言葉を超えた理解があった。


 外の喧騒が、遠雷のように響く。

 机の上に、白布。

 その上に軍刀を置く。


 私は静かに着物の帯を解き、膝を正す。

 腹部の上で両手を合わせ、息を整える。


 すべての音が消えた。

 世界が、完璧な沈黙に包まれる。


「私の死は終わりではない。

これは“形”の再生だ。」


 その言葉を心の中で唱え、

 私は刀を握った。


 冷たい鉄が肌に触れる。

 刃先が、ゆっくりと肉を押し開く。

 皮膚の下で熱い波が走る。

 痛みというより、光に近い感覚。


 血が溢れる。

 赤い海が膝の上に広がる。

 私はそれを見つめながら、不思議な安堵を感じた。


 ――これが、美の極点。


 森田の叫び声が遠くで響く。


「先生!」


 彼が軍刀を持ち上げ、私の首筋に光が走る。

 世界が一閃した。

 そして、すべての音が消えた。


 沈黙。

 私は闇の中にいた。

 光も、重力も、言葉もなかった。

 だが、自分の心臓の音だけが確かに響いていた。


 ――生きている?


 ゆっくりと目を開けると、

 白い天井と蛍光灯。

 消毒液の匂い。

 機械の音。


 私は病院のベッドの上にいた。


 点滴が腕に繋がれ、

 腹部には包帯が巻かれていた。

 医師が近づき、カルテをめくる。


「目を覚まされましたか。

事故のあと、三日間意識が戻らなかったんですよ。」


 私は唇を動かす。


「……事故?」


「ええ。腹部に裂傷があったんです。

でも、奇妙なことに――

傷の縁が古い手術痕のように癒着していた。」


 医師の声が遠ざかる。

 私はそっと包帯に触れた。

 そこには、確かに古い痛みがあった。

 それは三日前のものではない。

 もっと深い、もっと古い――誰かの記憶の痛み。


 夜、病室の窓の外に月が出ていた。

 その光が白く床に落ちる。

 私は起き上がり、鏡の前に立った。

 包帯の隙間から覗く古傷を見つめながら、

 低く呟いた。


「三島の死は、終わっていない……。」


 それは突然、理解として降りてきた。

 彼の死は肉体の終焉ではなく、

 遺伝子の記憶として受け継がれた再生の儀式だったのだ。


 私の中で、血が静かに脈打つ。

 その鼓動は、まるで遠い時代の太鼓のようだった。


「彼の死は、血液の言葉として僕に語りかけている。」


 窓を開けると、夜風が入り、

 包帯の端がふわりと揺れた。

 外の街は静まり返り、

 どこかで車の音が微かに響いていた。


 私は胸の奥で、誰かの声を聞いた。


「君は私を再び生かした。

だが、まだ終わってはいない。

血の記憶は、次の行為を求めている。」


 その声は確かに三島のものだった。

 私は目を閉じた。


 腹の奥から、あの冷たい鉄の感触が蘇る。

 痛みではなく、光。

 そして、炎のような熱。


 目を開けると、夜明けが近かった。

 空の端に、淡い赤が滲み始めている。

 私はその光を見つめ、微かに微笑んだ。


「形は壊れても、血は生きる。」


 指先が震える。

 その震えは恐怖ではなく、

 創造の前兆のように感じられた。


 新しい日が始まる。

 だが、その光の中で、

 私は確かに“死者の記憶”と共に立っていた。


 白い壁、白いシーツ、白い空。

 そのすべてが光に溶けていく。

 私は心の中で、あの言葉をもう一度繰り返した。


「私の死は終わりではない。

これは“形”の再生だ。」


 その瞬間、

 鼓動が静かに重なった――

 1970年の男と、2026年の青年の心臓の音が。


 病室の外では、朝の放送が流れ始めていた。

 看護師の靴音、点滴の滴る音。

 だが、真澄の耳にはそれがすべて、

 遠い鐘の音のように響いていた。


 彼の腹の奥では、まだ血が温かかった。

 それはもはや痛みではなく、

 生き続ける思想そのものだった。



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