第133章 楯の記憶 ― 再演される檄文
11月の雨が、射撃訓練場の鉄板屋根を叩いていた。
山裾にあるその施設は、かつて自衛隊の予備訓練地として使われていたという。
真澄はその廃れた空間を借り、十数人の学生と共に立っていた。
壁には白布の垂れ幕。
そこには墨で大書されていた。
「行為の純粋」
言葉は思想を越え、筋肉と汗の匂いを帯びていた。
真澄の声が、雨の音を割るように響く。
「我々は思想ではない。
血と筋肉で国家を取り戻す。
我々は“行動”の純粋を取り戻す。」
彼の声は冷たく、透明だった。
聴衆の青年たちは真剣な眼差しでうなずき、木刀を構える。
それはもはや宗教的儀式に近かった。
訓練は夜明け前から始まる。
腕立て、素振り、読経、瞑想。
真澄は汗にまみれた身体を鉄のように鍛え、
その姿は次第に“かつての誰か”に似ていった。
炎天下での訓練中、彼は仲間に語った。
「三島は文学者じゃない。あれは行為そのものだった。
彼の死は失敗じゃない。
あれは“未完の作品”なんだ。」
周囲の学生が熱に浮かされたように叫ぶ。
「真澄さん!俺たちが続きをやるんだ!」
彼は微笑んだ。
その微笑みの奥に、理性の影はもうなかった。
数週間後、SNSに動画が流出した。
真澄たちが迷彩服に身を包み、木刀を振り下ろし、
「国防とは倫理の回復なり」と叫ぶ映像。
動画は瞬く間に拡散し、メディアが騒ぎ立てた。
「現代のテロ集団」
「自衛隊崩れの過激派学生」
「三島由紀夫“再演”の狂信者たち」
炎上は止まらなかった。
大学は彼に停学処分を下し、メンバーの多くは離れていった。
友人が忠告した。
「もうやめろ。時代が違うんだ。」
だが真澄は静かに笑った。
「時代が違う?
違うのは俺たちじゃない。
この国の方が、死んだんだ。」
孤立。
SNSのコメント欄には罵倒と冷笑が並んだ。
「中二病」
「危険思想」
「現代の三島ごっこ」
だが真澄はそれを全て保存した。
炎上の画面を前に、低く呟く。
「三島はまだ死んでいない。
彼の思想は、僕らの無関心の中で腐っている。」
その夜、ノートに赤いインクで書きつけた。
「言葉はもう機能しない。
残されたのは、行為という言葉だけだ。」
その文字の上に、ふと血のしみが落ちた。
ペン先で指を切ったことにも気づかないまま、
彼はただ書き続けた。
雨が降り始めた。
都心の広場に、黒い影がひとり立っていた。
真澄だった。
夜の街灯の下、ずぶ濡れのシャツが肌に張りつく。
背筋は真っすぐに伸び、声が闇に響く。
「諸君。
我々は、もう言葉の中で死んでいる!」
通りすがりの人々が足を止めた。
傘の群れの中、誰かがスマートフォンを構える。
「金と快楽のために魂を売る時代に、
まだ“恥”を知る者がいるか!
美のために死ねる者が、まだいるか!」
声が割れ、雨が頬を打つ。
その表情――眉の動き、手の軌跡、声の抑揚。
すべてが1970年の三島由紀夫の演説と酷似していた。
街灯の光が彼の顔を照らし、
その輪郭が一瞬、あの“楯の男”の影に変わる。
通りの向こうに、沙耶が立っていた。
傘も差さず、濡れた髪が頬に張りついている。
彼女は震えながら、その姿を見つめていた。
真澄の声が雨を裂く。
「われわれの肉体は、思想の最後の拠点である!
言葉は腐った。行為こそが真実だ!」
群衆の中で、誰かが笑い、誰かが罵声を浴びせた。
だが沙耶は泣いていた。
涙と雨が区別できないほどに。
真澄の目が彼女を捉える。
一瞬、時間が止まった。
彼はゆっくりと手を伸ばし、
空を掴むようにして叫んだ。
「この腐敗を焼き尽くす火を――!」
その声が、街のビルの壁に反響した。
雷が鳴り、光が走る。
彼の顔が白く照らされたその瞬間、
沙耶には確かに“もうひとりの男”がそこに重なって見えた。
三島由紀夫。
あの檄文の夜の再演。
警備員が駆け寄り、群衆がざわめく。
真澄は濡れた髪を払い、静かに笑った。
「恐れるな。
美とは、常に破壊の中にある。」
その声は穏やかで、
むしろ優しさすら帯びていた。
沙耶が叫んだ。
「真澄! もうやめて!」
彼はその声を聞いた。
だが、振り返らなかった。
ただ、胸の奥で小さく呟いた。
「君はまだ醜さを知らない。」
雨脚が強くなり、
群衆の姿がぼやけ、
街のネオンが滲んでいった。
深夜、誰もいなくなった広場に、
彼の声の残響だけが漂っていた。
雨に濡れた地面には、紙片が一枚落ちている。
それは真澄の手帳から破られた一枚だった。
滲んだ文字が、かろうじて読めた。
「我々の時代は、信じるための肉体を失った。
だからこそ――再び、楯を掲げねばならない。」
風が吹き、紙片が闇の中へ飛んでいった。
その瞬間、
どこかで雷鳴が落ち、
空が裂けるように光った。
まるで、**再び始まる“檄文の夜”**を告げるかのように。




