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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第131章  討論会 ― 美と死の交差点



 午後六時、学内の講堂には、異様な静けさが漂っていた。

 「現代哲学研究会×文芸研究会 合同討論会」――

 テーマは、《美と死》。


 壇上には二つの机。

 左に葉山、右に私。

 照明が落とされ、スポットライトが二人を照らしていた。


 聴衆は百人ほど。

 学生、教授、そして新聞部の記者までいた。

 それでも空気は張りつめ、まるで葬儀の開式前のようだった。


 司会の声が響く。


「それでは、第一テーマ。“美の本質は何か”。

まずは哲学専攻・葉山君から。」


 葉山は静かに眼鏡を外し、淡々と語り始めた。


「美とは、社会的文脈の中で構築された認識の秩序です。

美しいとされるものは、時代の権力が定義します。

ギリシャの彫刻も、三島の肉体も、結局は権力とイデオロギーの産物です。」


 会場がうなずく。

 彼の論は整然としていた。

 フーコー、バタイユ、アガンベン――引用の連鎖が続く。


 だが、私はその知的整合性の中に、血の気のない空虚を感じた。


 司会が振る。


「では、平岡君。」


 私は立ち上がり、マイクを握った。


「美とは、痛みの形式です。」


 ざわめき。

 私は続けた。


「人は痛みを通してしか“生”を実感できない。

三島由紀夫はそれを理解していた。

だから彼は、美を“肉体的苦痛の中にある秩序”と定義したんです。」


 葉山が眉を上げる。


「痛みを美化するのか? それは暴力の肯定だろう。」


 私は即座に返した。


「違う。痛みを感じることは、“言葉では届かない現実”に触れることだ。

現代は痛みを忌避し、快楽と利便を神にした。

だが、快楽に倫理は生まれない。

倫理は、痛みからしか生じない。」


 会場が静まった。

 遠くで誰かがペンを落とした音が響く。


 葉山がマイクを取る。


「ならば訊こう。

君にとって“死”とは何だ?」


 私は一拍置き、答えた。


「完成です。」


 彼の口元が歪んだ。


「完成?」

「そう。生は未完であり、死によってしか閉じられない。

三島は、言葉ではなく行為でそれを証明した。

彼にとって死は、敗北ではなく“様式の終着点”だった。」


 葉山は少し身を乗り出した。


「それは神話だ。

現実の死は、肉体の腐敗と終焉にすぎない。

君は“死の美学”という幻影に酔っている。」


 私はマイクを握り締めた。


「違う。

君は“死”を観念でしか知らない。

だが、三島は死を言葉の外に連れ出した。

彼の死は思想の演出ではなく、“身体による論文”だった。」


 会場の照明がさらに落ちた。

 私たちの影が背後の白壁に伸び、交差する。

 葉山が立ち上がり、声を張った。


「ならば言え!

なぜ彼は日本という国家の名で死んだ?

あれは文学ではなく、政治的錯乱だ!」


 私は立ち上がり、まっすぐに彼を見据えた。


「国家とは、言葉の集合体だ。

だがその言葉を守るためには、時に血が必要になる。

三島は“国家という物語”を現実に引き戻そうとした。

つまり、国家とは――生きている文学だったんだ。」


 葉山は一歩、私に近づいた。


「じゃあ君は?

君も死ぬつもりか?

彼と同じように?」


 私は答えなかった。

 会場の空気が、冷たい金属のように凝縮する。


 沈黙の中、私はマイクを置き、代わりに手帳を取り出した。

 そこには、いつの間にか赤い文字で一行だけ書かれていた。


「美とは、死が触れた瞬間にしか咲かない花である。」


 私はその一文を読み上げた。

 会場の誰もが息を呑んだ。

 葉山も一瞬、言葉を失った。


 やがて、彼は低く言った。


「……君の言葉には、理屈を超えたものがある。

だが、それは危険だ。

君が見ている“美”は、他人を焼く光だ。」


 私は静かにうなずいた。


「そう。

太陽は誰のためにも止まらない。

だが、それでも僕らは、そこへ手を伸ばす。

それが――人間の宿命だ。」


 討論会は終わり、拍手も起きなかった。

 観客の多くは沈黙したまま席を立ち、廊下に消えていった。

 葉山は壇上に立ったまま、ゆっくりと眼鏡をかけ直した。


「平岡。君、どこまで本気なんだ?」

「たぶん、もう半分くらいは。」


 その言葉に、彼は何も返さなかった。


 講堂を出ると、夜風が吹いた。

 空は暗く、遠くに満月が浮かんでいた。

 光が強すぎて、星が見えない。


 ――あの月の光を、三島も見上げただろうか。


 帰宅すると、机の上にノートが開いていた。

 今度は、血のようなインクでこう記されていた。


「美を語る者は死を引き受けよ。

言葉に触れる者は、必ず火傷する。」


 私はページを閉じ、静かに息を吸い込んだ。

 胸の奥で、熱い痛みが広がる。

 それは恐怖ではなく、召喚のようだった。


「……僕は、まだ“試されている”のだ。」


 夜明け前、私はベランダに立った。

 東の空が淡く光を帯びていく。

 太陽が昇る瞬間、胸の奥に確かな感覚が走った。

 それは痛みではなく、存在そのものの証拠。


 朝の光が肌に刺さる。

 私は目を細め、唇の端で笑った。


「太陽は、やはり美しい。」



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