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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第129章 肉体の再構築 ― 鉄と血の修行



 あの日以来、私は毎朝五時に起きるようになった。

 まだ夜と朝の境目のような時間。

 窓の外には灰色の光、世界が息を止めているようだった。


 冷たい水で顔を洗い、鏡を見る。

 顔の輪郭が変わった気がする。

 血管が浮き、目の奥に“焦点”が生まれていた。

 まるで別人がこちらを見返しているようだ。


 机の上には、一冊の文庫本が開かれている。

 『太陽と鉄』――あの夜、蔵で見つけた祖父の本だ。

 ページの角はすべて折られ、赤線が引かれていた。


「言葉の時代が終わるとき、人は鉄と太陽に帰る。

鉄は行為の象徴であり、太陽は死の予兆である。」


 私は、その文を読み上げ、胸の奥で反響する音を確かめた。

 言葉ではない。これは指令だ。


 それから、私はジムに通い始めた。

 大学の講義を抜け、午後は鉄の匂いに満ちた地下の空間へ通う。

 汗と油の混ざった空気。

 ダンベルの落ちる金属音。

 そこには、現代の文明が失った“原初の律動”があった。


 初日は10キロのベンチプレスで腕が震え、

 翌日は立ち上がることすらできなかった。

 だが、痛みの中にある静かな快楽があった。

 筋肉が裂け、再生するたびに、

 私は自分の中に「他人の意志」を感じる。


 ――これは私の運動ではない。

 誰かが、私の体を借りて再生している。


 鏡の前に立ち、ゆっくりとポーズを取る。

 血管が浮き、光が皮膚に反射する。

 その瞬間、私は確かに理解した。


「肉体は言葉より正確だ。」


 言葉は裏切る。

 しかし肉体は嘘をつかない。

 破壊と再生のリズムの中で、私は初めて“倫理”を感じた。

 それは社会が教える倫理ではなく、

 肉体の内部から滲む痛覚の倫理だった。


 日が落ちると、私は剣道場に通った。

 竹刀の音が鳴るたびに、空気が震え、

 汗と埃の匂いが血に似た匂いを放った。


 木床を踏むたびに、脳裏に声が響く。

 > 「言葉ではなく、打て。」


 構え、息を止め、竹刀を振り下ろす。

 乾いた衝撃音とともに、体がひとつの記号になる。

 その瞬間、意識と肉体が重なり、

 世界が透明になる。


 稽古の終わりに、私は倒れ込み、

 竹刀を抱いたまま天井を見つめた。

 蛍光灯の光が、まるで太陽の断片のように目に刺さる。

 あの光の下で、三島も剣を振っていたのだろうか。


 帰り道、夜風が頬を撫でた。

 通り過ぎる車の窓に、ふと自分の姿が映る。

 胸板、腕、頬の骨。

 その輪郭が、徐々に“彼”に似ていく。


 大学の友人たちは私を「変わった」と言う。

 講義にも顔を出さず、酒も飲まず、SNSもやめた。

 私は笑って答えた。

 > 「言葉を鍛える前に、体を鍛えてるだけさ。」


 だが、心の中では別の声が囁いていた。


「お前は、死の準備をしている。」


 数週間後、私は研究室の片隅で卒論のテーマを変更した。

 タイトルは――

 『肉体倫理の復権 ― 三島由紀夫における行為の哲学』。


 教授は苦笑した。

 > 「文学で筋肉の話か? ずいぶん変わってるな。」

 私は静かに答えた。

 > 「先生、文学はもう言葉じゃないんです。

 > 行為そのものです。」


 その瞬間、私は自分が社会の“外”に立ったことを理解した。

 だが、それは恐怖ではなく、奇妙な清涼感だった。

 孤独が、純粋の証明に思えた。


 夏が近づき、日差しが強くなった。

 ジムの鉄は熱を帯び、手のひらに焼けつく。

 皮膚が裂け、血がにじむ。

 その血の赤が、太陽の色と重なった。


 ある日、私は鉄の棒を握りながら、

 ふと天井の蛍光灯の中に“光の人影”を見た。

 白いシャツ、鋭い眼差し。

 あの声が、再び耳の奥で囁いた。


「痛みは、肉体が真実に触れるときの祈りだ。

恐れるな。血は思想の延長線上にある。」


 私は思わず呟いた。

 「三島……あなたは、まだ終わっていないのですね。」


 その晩、家に戻ると、机の上のノートが開いていた。

 ページの中央に、赤いインクで一行が記されていた。


「太陽の下で死ね。」


 手が震えた。

 だが、奇妙に納得した。

 これは、死の予告ではなく、生の完成の形なのだ。


 私は部屋の電灯を消し、窓を開けた。

 夜の空に月が浮かび、街の光が沈黙していた。

 胸の鼓動が、竹刀の打撃音のように響く。


「言葉は、もはや血の速度に追いつかない。」


 その夜、私は眠らなかった。

 机に向かい、震える手で日記をつけた。


 > 「今日、私は鉄の中で生まれ変わった。

 > 言葉は肉体の影である。

 > そして、痛みこそが倫理である。」


 書き終えると、まぶたの裏に光が差した。

 それは朝の光ではなかった。

 太陽の記憶――

 かつて三島が見上げた、あの完璧な破滅の光だった。


 翌朝、ジムの鏡の前に立った私は、

 初めて、恐ろしいほど冷静な目で自分を見た。

 筋肉は形を持ち、呼吸は鋭く、肌は太陽に焼けていた。

 そしてその眼差しは――

 もう完全に、平岡公威のものだった。


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