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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第128章 敗戦の残響 ― 幻の若き日




 夢のなかで、私は立っていた。

 瓦礫の中、灰色の空が低く垂れこめている。

 風が吹くたびに、焦げた木材の破片が頬を掠めた。

 足元には焼けた新聞紙が貼りつき、見覚えのある文字が散乱している。


 ――1945年。東京。


 どこかでサイレンが鳴っていた。

 だが、それは警報ではなく、空虚な鐘のように響く。

 通りを歩く人々は、皆、灰を纏った幽霊のようだった。

 顔を伏せ、声を発しない。

 私は、自分がこの風景を“知っている”ことに気づいた。

 それは教科書や映画で見た記憶ではなく、血の奥から蘇る記憶だった。


 近くのガラスの割れた窓に、少年の姿が映った。

 学生服。細い体。

 鏡の向こうの彼は、まぎれもなく“平岡公威”だった。

 その眼差しは、私と同じものを見ていた――

 世界の終わりのような、静かな空を。


「……私は、死ねなかった。」


 声が重なった。

 彼の唇が動くと、私の胸の奥が震えた。

 まるで同じ呼吸をしているかのように。


 徴兵検査場。

 白衣の軍医が、書類をめくりながら冷たい声を発する。


「肺浸潤の疑いあり。入隊不適。」


 静かな一言が、爆撃よりも重く響いた。

 周囲では、合格した青年たちが安堵と緊張を交互に吐き出している。

 誰かが「おめでとう」と肩を叩いた。

 公威――いや、“私”は、その手を振り払った。


「なぜ……なぜ私は選ばれない?」


 医師は淡々と答える。


「国家は、健康な身体を求める。あなたは……文学をやっていなさい。」


 文学――

 その言葉が、まるで呪いのように胸に沈んだ。


 外に出ると、夏の光が白く広がっていた。

 遠くで若者たちが行進している。

 その顔には恐怖も疑いもなく、ただ“死を受け入れた者の静けさ”があった。

 彼らの列に混ざりたいという衝動が、喉を焼く。


「私は、死ぬことを許されなかった……」


 言葉がこぼれた。

 その瞬間、空から警報が鳴り響き、爆音が大地を揺らした。

 空襲だった。


 炎と煙。

 焼け落ちる家。

 女の叫び声、子供の泣き声。

 世界が赤く染まり、風が火の粉を巻き上げる。


 私は走った。

 何かを探していた。

 燃え盛る街の中で、私の中の“彼”が叫んでいた。


「私は、この死を、書き写さねばならない!」


 彼は、燃え落ちる家の前で立ち止まり、ノートを取り出した。

 そこに震える手で書きつける。


 > 「死とは、最も明確な言葉のかたちである。」


 爆風でノートが宙に舞った。

 紙が炎に包まれる。

 私は叫び声を上げたが、その声も煙に飲まれた。


 夜、地下壕の中。

 ろうそくの光が、壁に人々の影を映す。

 隣に座る老婆が言った。


「坊や、あしたは終戦の日になるそうだよ。」


 公威は静かに笑った。


「終戦……つまり、死ぬ理由がなくなるということですか。」


 老婆は答えず、震える手で rosary を握りしめていた。

 蝋燭の火が揺れ、薄暗い空間で彼の瞳だけが光った。

 その光は、私のものでもあった。


 ――翌朝。


 ラジオから、柔らかい声が流れる。

 玉音放送。

 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」


 人々が地面に膝をつく。

 泣く者、笑う者、ただ空を見上げる者。

 だが、公威はただ静かに立ち尽くしていた。


「これで、本当に死ねなくなった。」


 その声には、憎しみではなく、奇妙な安堵があった。

 彼はゆっくりと拳を握る。

 その拳には、もう銃も旗もない。

 代わりに、言葉が宿っていた。


「ならば、私は死を“書く”ことで死の中に生きよう。」


 その言葉が、彼の未来を決めた。

 文学は、彼にとって戦争の延長線上の死だったのだ。


 空が崩れるように白く光った。

 焼け跡の街が遠ざかり、音が消える。

 私は再び、現代の自室にいた。

 机の上には、昨日のノートが開かれていた。

 だが、そこには一行、見覚えのない文字が記されていた。


「死を生きる者へ ― 1945年より」


 私は唇を噛んだ。

 胸の奥で、あの熱が再び蘇る。

 鼓動が速くなり、呼吸が浅くなる。


 鏡に映る自分の姿が、あの少年――平岡公威――と重なって見えた。

 その眼差しの中に、私ははっきりと死の光を見た。


「あの時代が、僕の中で続いている。」


 窓の外では、雲の切れ間から陽が差し込み、

 白い光が部屋を満たしていた。

 それは、まるで終戦の日の朝の再現のようだった。


 夜、私はノートを閉じて机に座った。

 机の上に置かれた祖父の写真が、薄闇の中でゆっくりと揺れた。

 その背後に、ふと幻のような声がした。


「真澄、戦争はまだ終わっていない。

それは、言葉の中に形を変えて生きている。」


 私は息を飲み、ノートを再び開いた。

 次のページには、血のようなインクで一行が刻まれていた。


「書くこと、それは生き延びた者の戦争である。」


 私は震える手でペンを取り、

 その続きを――無意識のまま――書き始めた。


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