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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16

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第127章 遺影の呼吸 ― 書斎の中の声




 雨の夜だった。

 東京の秋の雨は、埃を洗い流すというよりも、記憶を沈殿させる。

 大学の講義を終え、古びた実家に戻った私は、廊下に漂う畳の匂いと湿気の重さに、どこか懐かしい閉塞を感じていた。


 母が亡くなってから半年。

 遺品整理を一度もまともにしていなかった私は、久しぶりに蔵の扉を開けた。

 懐中電灯の光が、長年眠っていた埃の層を切り裂く。

 木箱、古い軍服、新聞の束。

 その奥に、黒いトランクがひとつ――革の表面に、かすれた筆跡でこう書かれていた。


 「由紀夫兄上へ」


 私は息を呑んだ。

 “由紀夫”――その名は、血縁の中で長く禁句のように扱われてきた。

 祖父の兄が何者だったのか、誰も語ろうとしなかった。

 ただ一度、祖父が酔った夜に言った言葉を思い出す。

 > 「あの人は、自分を切り裂いて国家を説いた。

 > そして、誰も信じなかった。」


 私はトランクの錠を外した。

 蝶番の音が、古い時間を裂くように響いた。


 中には、黄ばんだ手紙の束と、鉄製の鍔、そして血の染みたノート。

 ノートの表紙には、崩れた万年筆の跡でこう書かれていた。

 「太陽の裏側」


 ページを開いた瞬間、空気が変わった。

 紙の間から立ちのぼる、鉄と汗のような匂い。

 筆跡は異様なほど整っており、硬質な抑揚があった。

 > 「言葉に肉体を取り戻せ。

 > さもなくば、文明は死を忘れる。」


 私は、その一文を読み上げたとたん、

 背後で、掛け時計が止まった。

 秒針が、まるで呼吸を止めたように沈黙した。


 雨音の中に、低い声が混じって聞こえる。

 “誰かが呼んでいる”――

 そんな錯覚が、胸の奥を冷やす。


 翌朝、私は大学の講義に出たが、ノートを取る気にならなかった。

 文学史の授業で教授が「三島由紀夫の死」を語るのを聞きながら、

 私は自分の掌を見ていた。

 指の関節の線が、まるで別の誰かの手のように見えた。


 ――あのトランクの中の血は、私の中にも流れているのか。


 講義が終わると、私は図書館に籠もった。

 『仮面の告白』『金閣寺』『太陽と鉄』。

 それらの背表紙を並べると、奇妙な既視感があった。

 文字が生き物のように蠢いて見える。

 読むほどに、言葉が血のように濃く、重くなる。


 > 「言葉は肉体を裏切る」

 > 「死は、美の完成である」


 その文句が、まるで自分の体温と同期していく。

 ページを閉じると、指先に微かな震え。

 私は、どこかで境界を踏み越えたのだと悟った。


 夜、再び書斎に戻った。

 トランクの中のノートを机に置く。

 窓の外では、風が竹林を撫でる音がしていた。


 ランプを灯すと、光がページの活字のような筆跡に滲んだ。

 ふと、机の隅にある遺影に目をやる。

 軍服姿の男。

 その瞳の奥に、こちらを射抜くような冷たさがある。


 私は無意識に声を出していた。

 「あなたは、何を見ていたんですか。」


 遺影の中の瞳が、微かに光ったように見えた。

 空気がざらつき、ランプの火が揺らぐ。

 ノートのページが勝手に開いた。


 そこに書かれていたのは、見覚えのある地名だった。

 「市ヶ谷総監部」


 私の背筋を冷たいものが走った。

 その瞬間、机の上の万年筆が落ち、インクが床に飛び散った。

 それは黒ではなく、深い紅に見えた。


 息を呑み、ペンを拾い上げようと手を伸ばしたとき――

 指先に、確かな体温が触れた。

 自分のではない。

 別の“誰かの手”が、私の上から重なっていた。


「真澄、聞こえるか。

言葉はもう死んでいる。

だから、血で書け。」


 声は、明らかに私の中から響いていた。

 胸の奥が灼けるように熱くなり、目の前の文字が滲む。

 ノートの紙が、まるで心臓の鼓動のように震えていた。


 気づけば、私は無意識に万年筆を握っていた。

 そして、紙に書き始めていた。


 > 「私は、死ななかった者の末裔である。

 > 私は、生き延びた恥を償うために生まれた。」


 その筆跡は、まるで私の意志ではなかった。

 だが、筆を止めることができない。

 書けば書くほど、身体の奥で血が騒ぎ、視界が赤く染まる。


 遠くで、古いラジオが勝手に鳴り出した。

 割れた音声の中で、どこかの演説が聞こえる。

 「――美しい日本を……取り戻せ――」


 私は顔を上げた。

 誰もいないはずの書斎の中央に、

 軍服を着た男が立っていた。

 白い手袋、短刀の鞘、冷たい微笑。


 声にならない言葉が喉から漏れた。


「……三島、由紀夫。」


 その男はゆっくりと頷いた。

 そして、まるで鏡の中の自分と対話するように、

 静かに言った。


「ここからだ、真澄。

君の時代が、私の続きを始める。」


 瞬間、ランプが爆ぜた。

 闇と光の間で、私は意識を失った。


 翌朝、目を覚ますと、机の上のノートは開かれたまま。

 だが、昨夜書いた文字は跡形もなく消えていた。

 代わりに、血のようなインクの跡で、

 一行だけ残っていた。


 > 「死の続きを、生きろ。」


 私は指先を見た。

 爪の間に、乾いた赤がこびりついていた。

 窓の外では、光が静かに射していた。

 その光は、どこかで見たことのある“太陽”の色をしていた。



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