第127章 遺影の呼吸 ― 書斎の中の声
雨の夜だった。
東京の秋の雨は、埃を洗い流すというよりも、記憶を沈殿させる。
大学の講義を終え、古びた実家に戻った私は、廊下に漂う畳の匂いと湿気の重さに、どこか懐かしい閉塞を感じていた。
母が亡くなってから半年。
遺品整理を一度もまともにしていなかった私は、久しぶりに蔵の扉を開けた。
懐中電灯の光が、長年眠っていた埃の層を切り裂く。
木箱、古い軍服、新聞の束。
その奥に、黒いトランクがひとつ――革の表面に、かすれた筆跡でこう書かれていた。
「由紀夫兄上へ」
私は息を呑んだ。
“由紀夫”――その名は、血縁の中で長く禁句のように扱われてきた。
祖父の兄が何者だったのか、誰も語ろうとしなかった。
ただ一度、祖父が酔った夜に言った言葉を思い出す。
> 「あの人は、自分を切り裂いて国家を説いた。
> そして、誰も信じなかった。」
私はトランクの錠を外した。
蝶番の音が、古い時間を裂くように響いた。
中には、黄ばんだ手紙の束と、鉄製の鍔、そして血の染みたノート。
ノートの表紙には、崩れた万年筆の跡でこう書かれていた。
「太陽の裏側」
ページを開いた瞬間、空気が変わった。
紙の間から立ちのぼる、鉄と汗のような匂い。
筆跡は異様なほど整っており、硬質な抑揚があった。
> 「言葉に肉体を取り戻せ。
> さもなくば、文明は死を忘れる。」
私は、その一文を読み上げたとたん、
背後で、掛け時計が止まった。
秒針が、まるで呼吸を止めたように沈黙した。
雨音の中に、低い声が混じって聞こえる。
“誰かが呼んでいる”――
そんな錯覚が、胸の奥を冷やす。
翌朝、私は大学の講義に出たが、ノートを取る気にならなかった。
文学史の授業で教授が「三島由紀夫の死」を語るのを聞きながら、
私は自分の掌を見ていた。
指の関節の線が、まるで別の誰かの手のように見えた。
――あのトランクの中の血は、私の中にも流れているのか。
講義が終わると、私は図書館に籠もった。
『仮面の告白』『金閣寺』『太陽と鉄』。
それらの背表紙を並べると、奇妙な既視感があった。
文字が生き物のように蠢いて見える。
読むほどに、言葉が血のように濃く、重くなる。
> 「言葉は肉体を裏切る」
> 「死は、美の完成である」
その文句が、まるで自分の体温と同期していく。
ページを閉じると、指先に微かな震え。
私は、どこかで境界を踏み越えたのだと悟った。
夜、再び書斎に戻った。
トランクの中のノートを机に置く。
窓の外では、風が竹林を撫でる音がしていた。
ランプを灯すと、光がページの活字のような筆跡に滲んだ。
ふと、机の隅にある遺影に目をやる。
軍服姿の男。
その瞳の奥に、こちらを射抜くような冷たさがある。
私は無意識に声を出していた。
「あなたは、何を見ていたんですか。」
遺影の中の瞳が、微かに光ったように見えた。
空気がざらつき、ランプの火が揺らぐ。
ノートのページが勝手に開いた。
そこに書かれていたのは、見覚えのある地名だった。
「市ヶ谷総監部」
私の背筋を冷たいものが走った。
その瞬間、机の上の万年筆が落ち、インクが床に飛び散った。
それは黒ではなく、深い紅に見えた。
息を呑み、ペンを拾い上げようと手を伸ばしたとき――
指先に、確かな体温が触れた。
自分のではない。
別の“誰かの手”が、私の上から重なっていた。
「真澄、聞こえるか。
言葉はもう死んでいる。
だから、血で書け。」
声は、明らかに私の中から響いていた。
胸の奥が灼けるように熱くなり、目の前の文字が滲む。
ノートの紙が、まるで心臓の鼓動のように震えていた。
気づけば、私は無意識に万年筆を握っていた。
そして、紙に書き始めていた。
> 「私は、死ななかった者の末裔である。
> 私は、生き延びた恥を償うために生まれた。」
その筆跡は、まるで私の意志ではなかった。
だが、筆を止めることができない。
書けば書くほど、身体の奥で血が騒ぎ、視界が赤く染まる。
遠くで、古いラジオが勝手に鳴り出した。
割れた音声の中で、どこかの演説が聞こえる。
「――美しい日本を……取り戻せ――」
私は顔を上げた。
誰もいないはずの書斎の中央に、
軍服を着た男が立っていた。
白い手袋、短刀の鞘、冷たい微笑。
声にならない言葉が喉から漏れた。
「……三島、由紀夫。」
その男はゆっくりと頷いた。
そして、まるで鏡の中の自分と対話するように、
静かに言った。
「ここからだ、真澄。
君の時代が、私の続きを始める。」
瞬間、ランプが爆ぜた。
闇と光の間で、私は意識を失った。
翌朝、目を覚ますと、机の上のノートは開かれたまま。
だが、昨夜書いた文字は跡形もなく消えていた。
代わりに、血のようなインクの跡で、
一行だけ残っていた。
> 「死の続きを、生きろ。」
私は指先を見た。
爪の間に、乾いた赤がこびりついていた。
窓の外では、光が静かに射していた。
その光は、どこかで見たことのある“太陽”の色をしていた。




