第125章 捕縛と沈黙(1945年5月)――秩序なき男
1945年5月21日。
北ドイツの風は冷たく、空は鈍い鉛のような色をしていた。
敗戦の報を聞いてから、ヒムラーは十日以上も偽名で逃亡していた。
名前は“ハインリヒ・ヒッツィンガー”。
身なりは労働者、肩には古びた外套。
だが、歩き方にはなお秩序の影が残っていた。
彼はまだ、書類を隠すように歩いた。
靴紐は左右同じ数の穴に通し、
外套のボタンは一番上だけを留める――それが彼の“儀式”だった。
その小さな秩序の習慣こそ、
彼の世界が崩壊してなお残る最後の“祈り”であった。
I. 逮捕
午後、ブレーメン街道沿いの検問所。
イギリス軍の兵士が、三人の難民風の男を止めた。
一人がやけに姿勢の正しい中年男だった。
その男こそヒムラーだった。
身分証の文字が偽造とすぐに判明した。
兵士の一人が言う。
「名前は?」
ヒムラーは短く答えた。
「ハインリヒ・ヒムラー。」
その瞬間、空気が凍りついた。
銃が向けられ、彼はゆっくりと両手を挙げた。
その顔には恐怖も怒りもなかった。
ただ、静かに整った呼吸だけがあった。
彼の秩序は、最後の瞬間まで崩れていなかった。
II. 尋問
ルーネブルクの捕虜収容施設。
石壁の部屋に、木の机と椅子が二つ。
尋問官は若い英国将校で、眼鏡越しに彼を見つめていた。
ヒムラーは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「あなたは何を信じていた?」
尋問官の声は低かった。
ヒムラーは少し間を置き、静かに答えた。
「秩序を。」
その声は、祈りというより陳述に近かった。
尋問官は眉をひそめた。
「秩序のために、あなたは何をした?」
ヒムラーは答える。
「汚れを取り除いた。国家という生物体を清めた。」
声は平坦で、まるで実験報告のようだった。
尋問官は言葉を失った。
ヒムラーの顔には、罪悪の影は一つもなかった。
そこにあるのは、破綻した信仰の残骸だけだった。
III. 独房の夜
夜、彼は鉄のベッドに腰を下ろしていた。
薄い毛布と、机の上のコップ一つ。
静寂の中で、遠くの兵舎の笑い声がかすかに聞こえる。
ヒムラーはポケットから小さな金属缶を取り出した。
その中には、銀色の小瓶が隠されていた。
青酸カリ――その存在を、彼は誰にも告げていなかった。
彼はそれを掌に載せ、
まるで遺物を扱う神父のように見つめた。
「秩序は人間を守らなかった。」
呟きが静かに落ちた。
机の上の鏡に、自分の顔が映っていた。
痩せた頬、青ざめた唇、眼鏡の奥の沈んだ瞳。
その顔が誰なのか、もうわからなかった。
国家の神官でも、長官でもない。
ただの“秩序を失った男”だった。
IV. 最後の祈り
夜明け前、彼はまだ起きていた。
机の上には、ナチスの徽章が置かれている。
それは、焼け焦げた制服から切り取ったものだった。
彼はその徽章を掌に包み、囁いた。
「秩序は終わった。」
窓の外では、雨が降っていた。
その音は、遠い鐘のように単調で、安らかだった。
彼はもう、何も分類しなかった。
書類も、命令も、信仰も、
すべての線が溶けていくのを静かに見つめていた。
ヒムラーは胸ポケットから再び小瓶を取り出す。
唇に当て、息を吸うように呟いた。
> 「神よ、私は汚れなかった。」
次の瞬間、彼の身体が震え、椅子が軋む音を立てた。
ガラスの破片が床に落ち、
彼の手から徽章が滑り落ちた。
床に落ちたその金属の音は、
まるで“秩序の終焉”を告げる鐘のようだった。
V. 静寂
朝、英軍の看守が独房を開けたとき、
ヒムラーは床に横たわっていた。
顔は安らかで、唇には青い泡。
机の上には、小さなノートが残されていた。
最後のページに、こう書かれていた。
> 「秩序は、私を超えた。
> だが私は、秩序を汚さなかった。」
その筆跡は、まだ整っていた。
死の瞬間まで、彼の手は官僚の筆致を保っていた。
看守が徽章を拾い上げ、光にかざした。
黒い鉤十字の向こうに、窓から朝の光が差し込んでいた。
外では鳥が鳴き、風が草を揺らした。
世界は、何事もなかったように秩序を取り戻していた。