表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2170/2172

第123章 秩序の戦争(1941–1943)――生物体の浄化




 1941年6月22日、夜明け前。

 ベルリン郊外のSS本部では、無数の電話線が赤く灯っていた。

 ヒムラーは地図の前に立ち、静かに命令文を読み上げた。

 「民族体の健康を回復せよ。」

 その言葉に軍医や将校たちは敬礼した。

 戦争は、彼にとって軍事ではなく外科手術であった。


I. 開戦 ― 国家の解剖台


 独ソ戦の報告が次々に届く。

 ヒムラーの机の上には、東部総督区からの書類が積み重ねられていた。

 そこには、日々の“処置報告”があった。

 「処刑:872名」「移送:3120名」「労働不能者:排除」――

 行を追うたび、文字が数字に変わり、数字が風景を消していく。


 報告書の余白に、彼は青鉛筆で記す。

 > 「生物体は清潔を保たねばならぬ。

 > 汚染部を除去することは、苦痛ではなく治療である。」


 その書き込みは、医師のカルテに似ていた。

 彼の思想は、道徳ではなく生理学の語彙で語られていた。


II. 視察 ― 感情の凍結点


 1942年、ポーランド東部。

 雪解けの泥の中、列車がゆっくりと停まる。

 ヒムラーは黒い外套を羽織り、無表情のまま車外へ出た。

 そこは、アウシュヴィッツ近郊。

 収容所の新設ブロックが完成したばかりだった。


 所長が敬礼し、報告を始める。

 「日平均輸送数:3,000。焼却炉3基稼働。灰の比率は約15%軽減。」

 ヒムラーは頷き、現場を視察する。

 煙突から灰が舞い、空は薄く霞んでいた。

 周囲に立つ将校のひとりが顔を背けた。

 吐き気をこらえるその様子を見て、ヒムラーは冷たく言った。

 「弱さは伝染する。秩序の内部に病を持ち込むな。」


 灰の匂いは、彼にとって罪ではなかった。

 それは“処置の結果”にすぎなかった。

 病巣が取り除かれた後の、静かな無臭。


 その夜、彼は列車の個室で日記を開いた。

 ランプの光の下に、短い文章を書きつける。

 > 「死は混沌の清掃である。

 > 国家は生物体であり、

 > その健康は犠牲によって保たれる。」

 インクが乾くまでの間、彼は窓の外を見た。

 暗闇の中、線路が無限に続いていた。

 それは、世界を一本の手術線に変えるような錯覚だった。


III. 統計の神殿


 1943年。

 ベルリンに戻ったヒムラーの机には、各収容所の報告が並ぶ。

 アウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネク。

 表紙には、すべて同じ印章――「機密・民族衛生局」。


 報告書の中には、死体数、焼却時間、燃料消費率。

 彼はその数字を確認し、赤鉛筆で余白にメモする。

 「燃料1トンあたり処理効率:13.4体/優」

 数字は人間を消去し、秩序を可視化する。

 感情はもはや不要だった。


 秘書官が恐る恐る尋ねる。

 「閣下、現場から一部の将校が“心理的負担”を訴えております。」

 ヒムラーは眼鏡の奥でまぶたを動かした。

 「負担? 外科医が手術に嘔吐するか?

  痛みは術者の責務ではない。対象の反応だ。」

 その声には一片の怒りもなかった。

 まるで、温度のない倫理が言葉を喋っているようだった。


IV. 内的沈黙


 夜、ヒムラーは執務室に残り、ラジオの音を絞った。

 窓の外、爆撃の光が遠くで揺らめく。

 机の上の写真立てには、家族の写真があった。

 妻、娘、犬。

 しかし彼の目はそこを素通りした。

 視線は、ファイルの背表紙へ向かった。

 「民族政策」「特別移送」「東部浄化作戦」。


 彼にとって世界は、秩序の維持装置としてしか存在しなかった。

 死者の数ではなく、秩序の安定度が成果の指標。

 数字が崩れれば世界が崩壊する――

 それが、彼の信仰の最後の形式だった。


 同年、ヒムラーは内部演説で語る。

 「我々は国家の医師である。

  民族という生物体を浄化する手術を行っている。

  手術は苦痛を伴うが、必要である。

  手を汚すことを恐れる者に、救済はない。」


 その場にいた将校の多くは青ざめた顔で頷いた。

 ヒムラーは彼らの恐怖を、忠誠の徴として見た。

 秩序を守る者には、情があってはならない。

 冷徹こそが聖性の証明だった。


V. 精神の終点


 戦争が泥濘に変わっていく中、

 ヒムラーはなお“浄化”という語を使い続けた。

 「民族の健康」「種の選別」「病巣の除去」――

 それらの語句が、倫理の代わりに機能した。

 彼の世界では、悪は無秩序の別名だった。

 だからこそ、彼の正義には終わりがなかった。


 彼の部屋の壁には、ルーン文字が掲げられていた。

 “Tiwaz”――勝利の神ティールの印。

 剣と秩序の象徴。

 その下で、ヒムラーは祈るように立ち尽くした。

 彼の手は、もう人間の痛みを感じなかった。

 それでも、震えていたのは静けさの中の自己暗示だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ