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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2169/2267

第122章 黒服の聖職者(1929–1939)――秩序の機械化



 ベルリン、1929年。

 首都の冬は、灰色の光に覆われていた。

 官庁街の通りには、制服の男たちが増えていた。

 黒、灰、茶――色の差が、忠誠の階級を示していた。


 ヒムラーはその中でも、最も無色のように見えた。

 黒服を着ても、声を荒げることはない。

 彼は静かで、几帳面で、異様なほど整っていた。

 だが、その静けさの底には、冷たい秩序の熱が燃えていた。


 1929年、彼はSS(親衛隊)の長官に任命された。

 当時のSSは、名ばかりの警護団にすぎず、わずか280人。

 だが10年後、それは数十万の組織となる。

 彼はその過程を、宗教改革のように感じていた。


 最初に彼が整備したのは、規律だった。

 「情熱はいらない。清潔であれ。」

 これは彼の口癖であり、信条だった。

 感情ではなく、書式。

 熱狂ではなく、整列。

 秩序を守ることそのものが、信仰の行為であった。


 SS本部の執務室。

 壁にはルーン文字の紋章がかかり、机の上には書類が積まれている。

 統計表、血統証明書、結婚申請書、処分記録。

 ヒムラーは一枚一枚に目を通し、丁寧に署名した。

 その手つきは、祈りに似ていた。


 内部報告書には、こう記されていた。

 > 「秩序は血に宿る。血は歴史の記録であり、

 > その浄化は国家の再生である。」


 彼は書類を読みながら、ふと鏡を見た。

 冷たい光の中に、眼鏡の奥の自分が映っていた。

 「私は汚れなき管理者である。」

 そう呟くとき、その声は僧侶の祈りのように平坦だった。


 ヒムラーのSSは、宗教的官僚機構として成長した。

 すべての行動に規定があり、

 規定は報告書に、報告書は統計に、統計は命令に転化する。

 命令を下す者は、感情を持たぬ者でなければならない。

 ヒムラーはその理念を徹底した。


 部下の一人が尋ねた。

 「我々の仕事は、人間を監視し、処罰することです。

  罪悪感をどう扱えばよいのでしょう?」

 ヒムラーは答えた。

 「秩序を保つ者は、罪を背負っても清い。

  汚れるのは、混乱を許す者だ。」


 彼にとって“清潔”とは、道徳ではなく構造の純度を指していた。

 秩序が維持される限り、人の死も数字のひとつにすぎなかった。


 1933年、ヒトラーが権力を握る。

 ベルリンの空にハーケンクロイツの旗が翻り、

 ヒムラーの机には、国家の行政印が置かれた。

 秩序は信仰から制度へ、そして制度から国家装置へ変わった。

 その過程を、ヒムラーは一枚の書類のように整理していった。


 各地の州警察を再編し、情報局を統合。

 強制収容所の設立命令には、細かな監督規定を付けた。

 囚人の収容、労働、食事、死亡報告――すべてを数字で管理する。

 それは“苦痛の産業化”でありながら、

 彼にとっては“秩序の勝利”に見えた。


 ヒムラーは夜ごと書類を整理した。

 インク壺、定規、鉛筆削り。

 それらが机の上に寸分の狂いなく並んでいる。

 報告書の束は、彼にとって聖典であった。

 神学書の代わりに統計、祈祷書の代わりに命令書。

 人間を理解する代わりに、人間を分類する。


 「数字が世界を支配する。」

 彼はそう信じていた。

 数の秩序こそ、人間の混沌を克服する唯一の言語。

 数値の整合性は倫理の代替となり、

 分類の精度が信仰の深さを測る尺度になった。


 1936年、彼は国家警察長官に就任する。

 国内のすべての警察をSSの支配下に置き、

 秩序を物理的に統一した。

 ベルリン本部の地下では、書類が流れるように運ばれ、

 地下室にはカード索引の機械が唸っていた。

 ヒムラーは視察中、若い事務官に言った。

 「人間の心よりも、記録の方が信頼できる。」


 そのとき、彼の声にわずかな温度があった。

 それは情熱ではなく、構造への愛情だった。


 1938年。

 夜遅く、ヒムラーはひとり執務室に残っていた。

 外では雪が降り、ベルリンの街灯がぼんやりと光る。

 机の上のファイルを閉じ、彼は立ち上がる。

 鏡の前に立ち、制服の襟を正した。

 銀の髑髏章が、ランプの光を受けて鈍く輝いた。


 「秩序を守る者は、神に最も近い。」

 そう呟いた後、彼は微笑んだ。

 その微笑には、罪の影が一切なかった。


 彼にとって罪とは、規律の破れであり、

 人間の苦しみは“誤差”にすぎなかった。

 完璧な秩序を維持すること――

 それが、彼の信仰の最終形であった。

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