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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2168/2187

第121章  民族の儀礼(1923–1925)――秩序の再聖化




 1923年11月、冷たい雨が降っていた。

 ミュンヘンの街路は、敗戦の痛みをまだ引きずっていた。

 街角では新聞売りの少年が声を張り上げる。

 「ヒトラーが動いた! 国家を救う蜂起だ!」

 その名は、すでに学生たちの間では英雄の響きを持っていた。


 ヒムラーは義勇兵として志願した。

 しかし現地に着く前に、蜂起は鎮圧されていた。

 翌日の新聞には、「ヒトラー逮捕」とあった。

 人々は失笑し、政治家たちは沈黙した。

 だがヒムラーにとって、それは敗北ではなかった。

 彼はノートに短く書いた。

 > 「彼は倒れたのではない。殉教したのだ。」


 ヒトラーの名は、彼にとって秩序の新しい預言者のように響いた。

 政治は宗教の代わりになる――

 そう信じた瞬間、ヒムラーの中で世界の構造が変わった。


 大学を去った彼は、民族主義団体の集会に通い始めた。

 学生結社、退役軍人会、農民同盟。

 どの部屋にも同じ匂いがあった――

 汗、煙草、そして信仰のない祈りの匂い。


 講演者たちは壇上で叫んだ。

 「ドイツ民族は血によって結ばれた共同体である!」

 「われわれの使命は、腐敗した現代から聖なる秩序を取り戻すことだ!」

 聴衆が一斉に腕を上げる。

 ヒムラーはその光景を見つめ、心の奥で何かが震えた。

 秩序は理念ではなく、儀式として存在すべきだ。

 彼の思考は科学から宗教へ、宗教から再び制度へと螺旋を描いて戻っていった。


 夜、下宿の机で彼はノートを開く。

 ページの上には、緻密な筆跡が並んでいる。

 > 「信仰なき秩序は冷たい。

 > 儀式なき信仰は崩れる。

 > 秩序は、信仰と儀式の間に立つ柱である。」

 インクが乾く音が、祈りのように響いた。


 この頃、ヒムラーは古代ゲルマン神話にのめり込んでいた。

 大学図書館でルーン文字の辞典を借り、

 「ティール」「オーディン」「イグドラシル」の章を何度も読み返した。

 自然界を支配する見えざる法――

 それは、神話の中でも“秩序”として描かれていた。

 神は善悪ではなく、均衡を守る存在だった。

 ヒムラーはその構造に、奇妙な懐かしさを覚えた。


 ある夜、集会のあと、同輩が彼に言った。

 「ヒムラー、君はまるで神父のようだ。話すたびに静かになる。」

 彼は微笑み、答えた。

 「神父ではない。秩序のための司祭だ。」

 その言葉は冗談ではなかった。

 ヒムラーの中では、政治が神学に置き換わりつつあった。

 人々が教会で祈るように、

 国家のために整列し、沈黙することが“信仰の形式”になる。


 祈りは、行動の形をとって再生する。

 それが、彼の“民族的宗教”の最初の定義だった。


 1924年。

 ヒトラー裁判が始まり、新聞はその名を毎日報じた。

 「彼は反逆者か、預言者か?」

 傍聴席には信者のような若者たちが集まった。

 ヒムラーは裁判記録を読み、夜に日記を綴る。

 > 「彼は秩序の殉教者だ。

 > 国家を神殿に戻すために倒れた者。」

 彼は政治を宗教化し、

 ヒトラーを“秩序の象徴”として祭壇に据えた。


 このときすでに、彼の中では新しい宗教の構造が整いつつあった。

 神=秩序、教会=国家、祈り=服従、罪=混乱。

 すべての概念が、冷徹に再配置されていった。


 ある冬の夜、彼は友人たちと山の小屋に集まった。

 外は吹雪、室内はランプの光が揺れている。

 ワインの瓶が回り、誰かが言った。

 「我らは敗れた国家の遺児だ。」

 ヒムラーは立ち上がり、ゆっくりと語り始めた。

 「いや、我々はまだ終わっていない。

  国家は血によって生き、秩序によって呼吸する。

  だが秩序は誰かが守らねば消える。

  我々が、その守人になる。」

 その場にいた者たちは静かに頷いた。

 それは政治的演説ではなく、誓いのような響きを持っていた。


 その夜の後、ヒムラーはノートに書く。

 > 「我らは国家の聖職者となる。

 > 血の純潔こそ神への祈りである。」


 この一行が、のちのSS(親衛隊)の精神的原文となる。

 “戦士ではなく、聖職者であること”――

 その観念が、彼の思想の中心軸に据えられた。


 1925年。

 ヒトラーが獄中から『我が闘争』を出版した。

 ヒムラーはその本を手に入れ、読み込み、

 重要な箇所を赤で線を引いた。

 「民族の純潔」「秩序の回復」「指導者の信仰」。

 それらの言葉は、彼の内側に既に存在していた思想と完全に重なった。

 彼は感じた――

 自分の信仰が、ついに外の世界に姿を得たのだ。


 春、彼はノートの最後のページを閉じた。

 「秩序は再び聖化された。

  我らの儀礼は始まった。」

 その筆跡は震えておらず、

 静かな確信に満ちていた。

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