第116章 《演目の最後/無音 — 家族心中と記憶の編集(1945年5月1–2日、戦後の影)
接続開始。
音がない。
呼吸だけがある。
地下壕の奥、光の届かない小室。
空気は甘い薬品と布の匂いで満ちている。
時間はほとんど停止しているが、心拍だけが進んでいる。
1. マグダの手と小瓶 ― 冷たい儀式(1945年5月1日 夜)
小さな寝室。
ベッドが二列に並び、白いシーツの上に眠る六人の子どもたち。
年長のヘルガが、わずかに目を開けて母を見ている。
マグダ・ゲッベルスは膝をつき、
一人ひとりに額へ口づけをする。
その手には小瓶——青酸カリ。
ガラスがランプの光を反射し、冷たい色を帯びていた。
「天国では、もう戦争はないの。」
囁くような声。
その声は、母の声というよりも祈りだった。
Y装置の内部記録は、心拍と同調して微細に揺れる。
呼吸の間にわずかな嗚咽。
化学薬品の匂い。
冷気が肌を刺す。
1人目、2人目——
空気が少しずつ軽くなる。
3人目で、涙が落ちる音がする。
4人目の唇がかすかに動いた。
「ママ……眠いの?」
答えはなかった。
ランプが一度だけ明滅した。
空気の流れが止まり、
世界が呼吸をやめた。
2. 静かな服毒と、その後の銃声(5月1日深夜)
時間が歪む。
部屋が遠ざかる。
次に、別の部屋。
ゲッベルスは机の前に座っている。
妻の顔に手を当て、しばらく動かない。
テーブルには封筒がいくつか。
「遺言」「記録」「国家への最後の奉仕」。
書かれた字は震えている。
彼は青酸カリを口に含む。
わずかな化学臭。
酸が舌を焼く。
喉が強張る。
——Y装置:呼吸波形消失まで6.3秒。
直後、銃声。
乾いた一発。
記録には断定できないが、SS兵が安楽死を補助した可能性が残る。
この一瞬の音が、歴史上の“幕切れ”として記録される。
だが接続者の耳には、爆発音ではなく、金属が床に転がる音として聞こえた。
重く、鈍く、終わりを告げるにはあまりに小さな音だった。
3. 地上 ― 煙と灰と風(5月2日未明)
地上。
空は白く曇り、瓦礫の街に朝が来ていた。
SSの兵が遺体を運び出す。
二人の身体は布で包まれ、ガソリンが撒かれる。
火がつく。
炎が一瞬だけ立ち上がり、黒煙が渦を巻く。
煙の中で、
焦げた髪、溶ける金具、紙の灰が舞う。
風が吹き、灰は空へ溶けていく。
Y装置は風の粒子を再現する。
灰の一片が、接続者の視界の中を漂う。
その灰は、印刷された活字の破片——「Volk(国民)」の文字。
わずかに読める。
次の瞬間、溶けて消える。
ソ連軍が地下壕に侵入する。
フラッシュライトの光、英数字の記録。
彼らは言う。
「遺体は不完全燃焼、身元確認不能。」
その報告書が後に改竄され、何十年も論争を呼ぶ。
灰は風に散り、
死は国家の記録に変わった。
4. 戦後 ― 編集者の指と日記の黒ずみ
時代が跳ぶ。
1950年代、西ドイツ。
机の上に積まれた日記の束。
編集者の指が、紙の端をめくる。
紙は湿気で波打ち、ところどころ黒ずんでいる。
文字は整然としている。
「私は真実を記した。」
「ヒトラーは歴史最大の人物である。」
編集者はため息をつき、赤鉛筆で線を引く。
「ここは削除。」
「ここは“中立的表現”に書き換え。」
タイプライターの音が再び響く。
——二度目の演出が始まる。
書かれた日記が出版され、
新聞が見出しを打つ。
“悪の天才の告白”
その瞬間、彼の“声”は再び蘇る。
だがそれは本人の声ではない。
編集された残響。
国家が再び“声”を必要としただけ。
Y装置は新しい音源を検出する。
1957年製の印刷機の軋み。
インクの乾く匂い。
声が紙になり、紙が再び記号に変わる。
5. 接続者の終端 ― 光が切れる瞬間
最後の映像。
小さな映写室。
スクリーンの前に接続者が座っている。
映像はモノクローム。
燃える家族の影、灰色の煙、編集者の指。
やがて、フィルムの端が白く焼ける。
「記録が尽きます。」
AI音声が告げる。
「この先には、音が存在しません。」
映写機の回転が止まる。
フィルムが切れ、静寂。
部屋には、温度と匂いだけが残る。
燃え残った紙片が一枚、ゆっくりと舞う。
そこに書かれていたのは、たった一語——
“Glaube(信仰)”。
光が消えた。
Y装置は出力ゼロ。
音も映像も失われ、
ただ、沈黙だけが世界を満たした。
——これが“声の終わり”である。
終止音:無音
心拍も止まり、データ波形は直線になった。
だが、その直線の向こうで、
ほんの一瞬だけ“風の記録”が残った。
それは灰が舞う音だったのか、
それとも歴史がまだ息をしている音だったのか。
判別不能。
——接続終了。