第115章 地図の端/地下の声 ― 1945年のベルリン、総統代理の一日(1945年4–5月)
接続開始。
視界が暗く沈む。
空気は鉄とカビと汗の混合物。
湿度は九十五パーセント。
Y装置の内部センサーが、肺の内壁に冷たい空気のざらつきを再現する。
——1945年4月30日、ベルリン総統地下壕。
1. ヒトラー遺言の口述室 ― タイプライターの連打
机の上に紙の束。
黒ずんだタイプライターが置かれ、金属の匂いが漂っている。
照明は裸電球。
リボンのインクが乾きかけている。
秘書が打つ。
“Hiermit ernenne ich Dr. Joseph Goebbels zum Reichskanzler.”
(ここにヨーゼフ・ゲッベルスを帝国宰相に任ず。)
カチ、カチ、カチ。
金属音が地下に響く。
その音が心臓の鼓動に似ていた。
ゲッベルスは机の前に立ち、紙の端に指を触れる。
紙が湿っていた。
その湿りは地下壕の空気そのもの。
「形式上の任命だ。」
彼は誰にともなく呟く。
——Y装置:脳波振幅低下、自己認識領域の収縮。
打ち終わった書類が渡される。
彼はゆっくりと署名した。
インクがにじむ。
その線は、現実と幻の境を曖昧にしていく。
2. 市街防衛の会議 ― 動かない地図
小部屋。
壁に貼られた市街地図。
ベルリン中心部。
無数のピンが刺さっているが、どれも動かない。
外の戦況を示す電話線は、すでに切れていた。
参謀が言う。「西方、ティーアガルテン方面、通信途絶です。」
もう一人が「南区からの報告も途絶。」
静寂。
誰も椅子を引かない。
ゲッベルスは地図を見つめた。
赤い線が国境ではなく、“記憶の輪郭”に見えた。
この線の向こうに、もう国家は存在しない。
あるのは、名前だけの“帝国”。
「地図の端まで来た。」
彼の声が、紙よりも薄く響く。
Y装置は音声振幅を再現。
——その声には、もはや“命令”の波形が存在しなかった。
3. 地上の瓦礫 ― 沈黙の行列
場面が反転。
Y装置が地上の記録層へ切り替える。
通りは灰色。
建物の骨格だけが立ち、空は煤で曇っている。
パン配給所。
女たちが並んでいる。
沈黙。
風の音、紙袋の擦れる音。
スピーカーが壁に掛かっている。
だが、そこからは何も流れない。
ゲッベルスは防空帽を目深にかぶり、列の端を見ていた。
人々は彼を見ても、何も言わなかった。
彼らはもう“言葉”を信用していなかった。
「宣伝が消えた日だ。」
その呟きが、まるで自分自身の葬送辞のように響いた。
瓦礫の隙間から、破れたポスターが覗く。
“Der Sieg wird unser sein.”(勝利は我らのものだ)
その文字の“Sieg”の部分だけが焦げて、読めなかった。
4. 夜の放送室 ― 老いた声
再び地下。
小さな放送室。
機材は古び、配線は焦げ、レコードは割れている。
マイクの銀色はくすみ、金属の匂いが強い。
机の上には原稿。
「国民よ、いまこそ忠誠をもって最後まで——」
彼は読むが、声がかすれる。
マイクの反応が鈍い。
録音技師が首を傾げる。
「大臣、ノイズが入ります。」
「ノイズではない。」
彼は微笑む。
「これは現実の音だ。」
耳の奥に、ハウリングが生まれる。
Y装置もそれを再現する。
声が波のように上下し、途切れ、滲む。
——彼の声は老いていた。
喉ではなく、現実の方が老いたのだ。
読み終えた瞬間、彼はマイクを外す。
「もう誰も聞いていない。」
その言葉に、技師は返事をしなかった。
5. マグダと子どもたち ― 揺れるランプの光
深夜。
地下壕の最奥。
小部屋にベッドが並んでいる。
六人の子どもたちが静かに寝ている。
ランプの光が、薄い黄の輪を作る。
マグダが子どもの髪を撫でている。
その手つきは、祈りのようだった。
ゲッベルスは扉の前で立ち尽くす。
何も言えない。
「彼らに苦しみを味わわせたくないの。」
妻の声が微かに響く。
「わかっている。」
彼はその言葉の重さを理解していた。
Y装置は、子どもの寝息を拾う。
そのリズムが、地下の換気音と重なる。
ゆっくりとした心拍。
生命と機械の境界が曖昧になる。
ゲッベルスは手帳に書く。
「人間の言葉はここで終わる。
これから先は、沈黙が語る。」
終止音 ― 地下の心拍
午前4時。
地下の照明が一瞬だけ明滅する。
換気ファンが回転し、空気の流れが変わる。
それは、まるで地下壕全体が“ひとつの肺”になったようだった。
Y装置がその振動を心拍と同期させる。
——ドン、……ドン、……ドン。
遅い、規則的なリズム。
紙の上には、署名済みの遺言書。
ランプの火が弱まり、最後の文字が揺れる。
ゲッベルスはその紙を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
音が消える。
だが、沈黙の底で、かすかな空気の波が続いていた。
それは、まだ誰かが呼吸しているという証拠ではなく、
歴史そのものが、息を止めている音だった。
——接続終了。




