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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2160/2290

第113章 総力戦の声 ― 戦時宣伝の高域圧縮と破綻(1939–1943)




 接続開始。

 空気が重い。

 室内の空気が、まるで音に飽和している。

 Y装置が同期を始めると同時に、鼓膜の奥に「ハウリング」が生じた。

 ——それは、過剰な声の記録だった。


1. 開戦ラジオ声明 ― 呼吸の削除された声(1939年9月1日)


 地図卓の上に薄青の線が走っている。ポーランド国境。

 ライトの下で、ゲッベルスは台本をなぞる。

 「我々は今や防衛のために戦っている」

 声に呼吸の間を入れない。

 “息継ぎ”が入ると不安が混ざる——それを、彼は知っていた。


 マイクロフォンの前で、彼の姿勢は完璧だった。

 背筋を立て、顎をわずかに上げる。

 発音は切子細工のように鋭く、空間を切り裂く。

 ラジオスタジオの赤ランプが点灯する。

 彼の声が、即座に千万人の耳へと分配されていく。

 ——「戦争ではない。秩序の再生である。」


 Y装置が記録する波形は、ほとんど矩形波に近い。

 感情の余白が切り詰められ、声は一種の電気信号と化していた。


2. 空襲下の深夜放送 ― サイレンとバロック(1941年)


 夜。ベルリン。

 サイレン。遠くで高射砲の爆音。

 スタジオのガラスが震える。

 それでも、マイクの前に座る彼の背筋は崩れない。

 放送内容:戦局報告、勇気、勝利。

 背景には小さくバッハの「マタイ受難曲」。

 彼は指先でテンポを刻みながら、言葉を選んでいく。


 「ドイツはまだ立っている。」

 「空に光るのは、敵の炎ではなく、我らの信念だ。」


 窓の外では、実際に炎が空を焼いていた。

 Y装置がその音を重ねる。爆裂音と彼の声が重なる。

 どちらが真実かわからない。

 だが放送は続く。


 機械の針が上下する。

 放送主任が「もうすぐ電力が落ちます」と告げる。

 ゲッベルスはうなずき、最後の一行を静かに読んだ。

 「この夜の果てに、新しい朝を——」

 照明が落ちた。


3. 葬列の映像編集 ― 悲嘆の均質化(1942年)


 映像編集室。

 彼は暗い部屋で、戦死者の葬列映像を見つめていた。

 雪の上を歩く人々。白い棺。黒いコート。

 その映像を、彼は“計算”で組み替えていく。


 ——泣きのカットは7秒が限界。

 8秒を超えると、観客は個人の悲しみに同調してしまう。

 7秒以内なら、悲嘆は「国家の感情」として均質化される。


 「悲しみは編集できる。悲しみも素材だ。」

 彼の声が、低く空気を割く。


 リールが回る。

 彼は“泣き”のカットを数フレームずつ短くし、

 代わりに軍旗が風になびくカットを挿入する。

 音楽を重ね、ナレーションを指示する。

 「彼らの死は無駄ではない」

 再生。完璧な“感情の均質体”。

 観客は泣くが、誰のために泣いているのかを知らない。


 Y装置記録:思考領域に一致波。倫理的抑制波の消失。


4. 1943年2月18日 スポーツ宮殿 ― 熱狂の飽和点


 場内は熱で曇っていた。

 冬なのに、空気が汗の蒸気で満ちている。

 マイクの前、彼は一歩前に出た。

 ライトの光が汗を照らす。観客の息が霧となる。


 「国民よ、君たちは総力戦を望むか!」


 一瞬の沈黙。

 次の瞬間、地鳴りのような歓声。

 「望む!」

 声が壁を震わせ、天井の旗が波打つ。

 群衆の唾が光り、女性の頬が紅潮し、

 老人の拳が震えていた。


 彼はその全てを“録音”していた。

 群衆の声、拍手、息遣い。

 それらを後に編集して拡声する。

 熱狂を“再生可能”にするために。


 「我々の敵は、外ではない。怠惰だ。疑念だ。」

 彼の声は、既に宗教の域にあった。

 音が圧縮されすぎて、もはや意味を持たない。

 歓声そのものが神の言葉となる。


 Y装置は過負荷を検知。

 音圧:126デシベル。聴覚皮質の同期波形が乱れる。

 接続者の視界が白く飽和する。


 ——声の飽和点。

 その向こうにあるのは、静寂だった。


5. 夜の日記 ― 反響と空虚の凹み(同夜)


 演説後の夜。

 ホテルの部屋。窓の外には雪。

 机の上に、手帳と万年筆。

 彼は書き始める。


 「今夜、国民は燃えた。

  彼らは私の声を信じた。

  だが……私自身は、何を信じている?」


 手が震えている。

 暖房の熱が強すぎるのに、寒気がした。

 鏡の中の自分を見つめる。

 「声が私を超えた。」

 それは誇りでもあり、恐怖でもあった。


 Y装置:活動電位の位相反転。自己認識領域の低下。

 ——彼の“声”は、もはや自我の外に存在している。


6. 終止音 ― 紙吹雪の湿り


 翌朝。

 スポーツ宮殿の床。

 掃除係が紙吹雪を集めている。

 湿った紙が靴底に貼り付き、赤い線が滲む。

 歓声の余熱が、まだ床の埃に残っている。


 録音機材が運び出され、スピーカーが沈黙する。

 空気は、まるで巨大な肺が息を吐いた後のように静かだった。


 ゲッベルスの声は、すでに編集室に送られていた。

 彼の“声”だけが独り歩きし、本人の中にはもう残っていなかった。


 Y装置接続終了。

 最後に見えたのは、

 床に落ちた一枚の紙切れ。

 「総力戦を望むか?」

 その印字が、湿り気で滲み、ほとんど読めなかった。


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