第113章 総力戦の声 ― 戦時宣伝の高域圧縮と破綻(1939–1943)
接続開始。
空気が重い。
室内の空気が、まるで音に飽和している。
Y装置が同期を始めると同時に、鼓膜の奥に「ハウリング」が生じた。
——それは、過剰な声の記録だった。
1. 開戦ラジオ声明 ― 呼吸の削除された声(1939年9月1日)
地図卓の上に薄青の線が走っている。ポーランド国境。
ライトの下で、ゲッベルスは台本をなぞる。
「我々は今や防衛のために戦っている」
声に呼吸の間を入れない。
“息継ぎ”が入ると不安が混ざる——それを、彼は知っていた。
マイクロフォンの前で、彼の姿勢は完璧だった。
背筋を立て、顎をわずかに上げる。
発音は切子細工のように鋭く、空間を切り裂く。
ラジオスタジオの赤ランプが点灯する。
彼の声が、即座に千万人の耳へと分配されていく。
——「戦争ではない。秩序の再生である。」
Y装置が記録する波形は、ほとんど矩形波に近い。
感情の余白が切り詰められ、声は一種の電気信号と化していた。
2. 空襲下の深夜放送 ― サイレンとバロック(1941年)
夜。ベルリン。
サイレン。遠くで高射砲の爆音。
スタジオのガラスが震える。
それでも、マイクの前に座る彼の背筋は崩れない。
放送内容:戦局報告、勇気、勝利。
背景には小さくバッハの「マタイ受難曲」。
彼は指先でテンポを刻みながら、言葉を選んでいく。
「ドイツはまだ立っている。」
「空に光るのは、敵の炎ではなく、我らの信念だ。」
窓の外では、実際に炎が空を焼いていた。
Y装置がその音を重ねる。爆裂音と彼の声が重なる。
どちらが真実かわからない。
だが放送は続く。
機械の針が上下する。
放送主任が「もうすぐ電力が落ちます」と告げる。
ゲッベルスはうなずき、最後の一行を静かに読んだ。
「この夜の果てに、新しい朝を——」
照明が落ちた。
3. 葬列の映像編集 ― 悲嘆の均質化(1942年)
映像編集室。
彼は暗い部屋で、戦死者の葬列映像を見つめていた。
雪の上を歩く人々。白い棺。黒いコート。
その映像を、彼は“計算”で組み替えていく。
——泣きのカットは7秒が限界。
8秒を超えると、観客は個人の悲しみに同調してしまう。
7秒以内なら、悲嘆は「国家の感情」として均質化される。
「悲しみは編集できる。悲しみも素材だ。」
彼の声が、低く空気を割く。
リールが回る。
彼は“泣き”のカットを数フレームずつ短くし、
代わりに軍旗が風になびくカットを挿入する。
音楽を重ね、ナレーションを指示する。
「彼らの死は無駄ではない」
再生。完璧な“感情の均質体”。
観客は泣くが、誰のために泣いているのかを知らない。
Y装置記録:思考領域に一致波。倫理的抑制波の消失。
4. 1943年2月18日 スポーツ宮殿 ― 熱狂の飽和点
場内は熱で曇っていた。
冬なのに、空気が汗の蒸気で満ちている。
マイクの前、彼は一歩前に出た。
ライトの光が汗を照らす。観客の息が霧となる。
「国民よ、君たちは総力戦を望むか!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、地鳴りのような歓声。
「望む!」
声が壁を震わせ、天井の旗が波打つ。
群衆の唾が光り、女性の頬が紅潮し、
老人の拳が震えていた。
彼はその全てを“録音”していた。
群衆の声、拍手、息遣い。
それらを後に編集して拡声する。
熱狂を“再生可能”にするために。
「我々の敵は、外ではない。怠惰だ。疑念だ。」
彼の声は、既に宗教の域にあった。
音が圧縮されすぎて、もはや意味を持たない。
歓声そのものが神の言葉となる。
Y装置は過負荷を検知。
音圧:126デシベル。聴覚皮質の同期波形が乱れる。
接続者の視界が白く飽和する。
——声の飽和点。
その向こうにあるのは、静寂だった。
5. 夜の日記 ― 反響と空虚の凹み(同夜)
演説後の夜。
ホテルの部屋。窓の外には雪。
机の上に、手帳と万年筆。
彼は書き始める。
「今夜、国民は燃えた。
彼らは私の声を信じた。
だが……私自身は、何を信じている?」
手が震えている。
暖房の熱が強すぎるのに、寒気がした。
鏡の中の自分を見つめる。
「声が私を超えた。」
それは誇りでもあり、恐怖でもあった。
Y装置:活動電位の位相反転。自己認識領域の低下。
——彼の“声”は、もはや自我の外に存在している。
6. 終止音 ― 紙吹雪の湿り
翌朝。
スポーツ宮殿の床。
掃除係が紙吹雪を集めている。
湿った紙が靴底に貼り付き、赤い線が滲む。
歓声の余熱が、まだ床の埃に残っている。
録音機材が運び出され、スピーカーが沈黙する。
空気は、まるで巨大な肺が息を吐いた後のように静かだった。
ゲッベルスの声は、すでに編集室に送られていた。
彼の“声”だけが独り歩きし、本人の中にはもう残っていなかった。
Y装置接続終了。
最後に見えたのは、
床に落ちた一枚の紙切れ。
「総力戦を望むか?」
その印字が、湿り気で滲み、ほとんど読めなかった。