第11章 《風景のなかの名前》
2025年4月3日 午後——
広島県呉市・焼山団地跡地
有馬艦長の命により、数日間の休暇が与えられた大和の乗員たちは、それぞれ「帰るべきだった場所」へと足を向けた。
少尉・森田周三は、呉の市街地からバスを乗り継ぎ、丘陵地帯の一角に降り立った。
そこはかつて、「下焼山町」という名の、まだ舗装も十分でない町外れの住宅地だった。彼の記憶にあるのは、木造二階建ての長屋式家屋と、裏手の畑。そして毎朝、弟と一緒に降りていった通学路の坂道。
だが今、その風景は何もかもが違っていた。
目の前に広がるのは、鉄筋コンクリートの集合住宅群と、商業施設の駐車場。かつて自宅があったはずの場所には、大手ドラッグストアの巨大な看板が立っていた。
「……違う。全然、違う」
森田は、小さく呟いた。
ふと視線を下ろすと、足元に「焼山三丁目バス停」と書かれた標識がある。かすかに記憶を刺激する地名だった。そこに、「市営焼山団地ゆき」のバスが、ガラスのような車体で滑り込んできた。
森田はその場に立ち尽くした。
背負ってきた陸戦服の肩が重い。呼吸が浅くなる。かつて母が洗濯物を干していた縁側はもう存在しない。戦争に行く前、背中を押してくれた父の声も、ここにはもう残っていない。
だが——
どこかで、カン、カン、と鉄棒のような音が聞こえた。
視線を向けると、公園の隅に、制服姿の小学生がひとり、逆上がりの練習をしていた。
木漏れ日を受けたその姿に、ふと弟の面影が重なる。
森田はゆっくりと、その場に膝をついた。何かを探すように、土の感触を手で確かめた。
—この地に、確かに自分はいたのだ。
—この土地に、家族がいて、未来を信じていた少年がいた。
そこへ、一台の白い車が停まり、ドアが開いた。後部座席から、海自の広報担当官が降りてきた。
「森田少尉、時間です。呉港へ戻ります」
森田は立ち上がった。
「俺の魂は、ここに置いていっていいかもしれん」
その言葉に、担当官は黙って頷いた。
遠ざかる窓の外で、あの少年がついに逆上がりを成功させていた。