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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2156/2222

第109章 小さな足/長い影 ― 出自・欠損・言葉への逃避(1897–1923)



 接続開始。

 音より先に、湿った土の匂いが届いた。

 ライン地方ライドの秋。石造りの家の壁に苔が滲み、雨の雫が金属の樋を伝って落ちる。

 その下で、小さな男の子が右足を庇いながら歩いていた。杖の先が石畳を打つたびに、乾いた音が空気を震わせる。


 ——この痛みを、彼は生涯忘れなかった。


 母カタリナが言う。「歩きなさい、ヨーゼフ。あなたは強い子よ。」

 声は優しいが、視線はどこか遠い。父フリッツは、工場の帳簿を閉じたまま、無言で新聞を見つめている。紙の端に印刷された「ストライキ」「失業者」「賃上げ」の文字。家庭は清潔で慎ましい。だが、どこか緊張が張り詰めていた。

 食卓に並ぶのは黒パンとスープ。祈りの後、沈黙の中でスプーンが陶器を叩く。少年は、家族の息づかいのリズムを言葉の代わりに記憶していた。


 夜、咳が止まらない。胸の奥で音が割れ、呼吸がひっかかる。

 天井の梁が滲んで見える。ランプの明かりが淡く、部屋の隅で影が揺れている。

 「どうして僕の足は、みんなと違うのだろう。」

 その問いは声にならず、ただ胸の中で回り続けた。


 学校では、彼は目立たなかった。

 体育の時間は見学。冬の校庭で、クラスメートが走る音を聞いていた。

 雪を踏みしめる靴音が遠ざかる。自分はそこにいない。

 孤立と沈黙の時間が、やがて彼の“聴く力”を鍛えた。

 他人の声の抑揚、教師の息継ぎ、言葉の間——そのすべてを、彼は身体で覚えていった。

 彼にとって「声」は、外界をつなぐ唯一の武器となった。


 十代の終わり、第一次世界大戦が始まる。

 通りでは鼓笛隊が行進し、旗が翻る。友人たちは志願兵として出征していく。

 ヨーゼフも列に加わろうとしたが、軍医が首を振った。

 「右足の骨格異常。従軍は不適格だ。」

 その言葉が、胸の奥で鈍く刺さる。

 彼は笑って見せたが、心の内では何かが壊れた。

 “国家が自分を拒んだ”という感覚。

 彼は銃を持てなかったが、言葉という兵器を探し始めた。


 大学へ進む。ボン、ヴュルツブルク、フライブルク、そしてハイデルベルク。

 図書館の窓辺、冷たい光の中で、彼は鉛筆を走らせた。

 机には、ドストエフスキー、ゲーテ、ニーチェ、そして聖書。

 「信仰は言葉の形をした秩序だ。」

 ノートにそう書き込み、何度も消しては書き直す。

 神ではなく、人間の言葉が世界を動かす。

 その確信が、静かに芽生えていく。


 夜更けの寄宿舎。ランプの油が切れかけ、窓の外で風が鳴る。

 彼は机に向かい、自分の脚をさすった。冷たく、痩せた骨。

 そこに力はない。

 しかし、その痛みを越えるように、指先が紙を叩く。

 「私は、語る。彼らの代わりに。」

 誰に向けてかも分からない誓い。

 だが、その言葉は確かに未来への種だった。


 ——Y装置の計測データ:心拍 82。皮膚電位上昇。

 接続者の脳波にβ域活性。

 記録映像:少年の顔の影、瞳孔の開き。


 彼の卒業論文は文学的だったが、形式は冷徹だった。

 ハイデルベルク大学で博士号を得る。テーマは近代作家の精神分析。

 講義室の壇上で、教授が証書を渡す。

 周囲の拍手の中、彼の表情は硬い。

 「博士」と呼ばれる資格を得ても、胸の奥の欠落は埋まらなかった。


 戦争は終わり、敗戦国ドイツ。

 通りには乞食と失業者。新聞の見出しに「共和国」の文字。

 彼は群衆を見つめながら思った。

 「彼らは言葉を失っている。」

 そして、その沈黙の空白を埋める何かが、遠くから近づいてくる。


 それはまだ名もない声——だが確かに、未来を煽動する熱を孕んでいた。

 彼は、その熱を“言葉で操る者”になることを、無意識に悟っていた。


 机の上には、使い古された杖。

 木の節に、指の跡が残っている。

 彼の一生の中で、この杖の音は“行進のリズム”へと変わっていく。

 足の痛みが消えることはなかった。

 だが、彼にとってそれは、現実を超えるための燃料となった。


 接続終了。

 映像が途切れる直前、壁の鏡に映った少年の顔がわずかに笑った。

 その笑みには、哀しみよりも確信があった。

 “欠けているからこそ、語れる”——彼の内部の論理は、もう始まっていた

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