第109章 小さな足/長い影 ― 出自・欠損・言葉への逃避(1897–1923)
接続開始。
音より先に、湿った土の匂いが届いた。
ライン地方ライドの秋。石造りの家の壁に苔が滲み、雨の雫が金属の樋を伝って落ちる。
その下で、小さな男の子が右足を庇いながら歩いていた。杖の先が石畳を打つたびに、乾いた音が空気を震わせる。
——この痛みを、彼は生涯忘れなかった。
母カタリナが言う。「歩きなさい、ヨーゼフ。あなたは強い子よ。」
声は優しいが、視線はどこか遠い。父フリッツは、工場の帳簿を閉じたまま、無言で新聞を見つめている。紙の端に印刷された「ストライキ」「失業者」「賃上げ」の文字。家庭は清潔で慎ましい。だが、どこか緊張が張り詰めていた。
食卓に並ぶのは黒パンとスープ。祈りの後、沈黙の中でスプーンが陶器を叩く。少年は、家族の息づかいのリズムを言葉の代わりに記憶していた。
夜、咳が止まらない。胸の奥で音が割れ、呼吸がひっかかる。
天井の梁が滲んで見える。ランプの明かりが淡く、部屋の隅で影が揺れている。
「どうして僕の足は、みんなと違うのだろう。」
その問いは声にならず、ただ胸の中で回り続けた。
学校では、彼は目立たなかった。
体育の時間は見学。冬の校庭で、クラスメートが走る音を聞いていた。
雪を踏みしめる靴音が遠ざかる。自分はそこにいない。
孤立と沈黙の時間が、やがて彼の“聴く力”を鍛えた。
他人の声の抑揚、教師の息継ぎ、言葉の間——そのすべてを、彼は身体で覚えていった。
彼にとって「声」は、外界をつなぐ唯一の武器となった。
十代の終わり、第一次世界大戦が始まる。
通りでは鼓笛隊が行進し、旗が翻る。友人たちは志願兵として出征していく。
ヨーゼフも列に加わろうとしたが、軍医が首を振った。
「右足の骨格異常。従軍は不適格だ。」
その言葉が、胸の奥で鈍く刺さる。
彼は笑って見せたが、心の内では何かが壊れた。
“国家が自分を拒んだ”という感覚。
彼は銃を持てなかったが、言葉という兵器を探し始めた。
大学へ進む。ボン、ヴュルツブルク、フライブルク、そしてハイデルベルク。
図書館の窓辺、冷たい光の中で、彼は鉛筆を走らせた。
机には、ドストエフスキー、ゲーテ、ニーチェ、そして聖書。
「信仰は言葉の形をした秩序だ。」
ノートにそう書き込み、何度も消しては書き直す。
神ではなく、人間の言葉が世界を動かす。
その確信が、静かに芽生えていく。
夜更けの寄宿舎。ランプの油が切れかけ、窓の外で風が鳴る。
彼は机に向かい、自分の脚をさすった。冷たく、痩せた骨。
そこに力はない。
しかし、その痛みを越えるように、指先が紙を叩く。
「私は、語る。彼らの代わりに。」
誰に向けてかも分からない誓い。
だが、その言葉は確かに未来への種だった。
——Y装置の計測データ:心拍 82。皮膚電位上昇。
接続者の脳波にβ域活性。
記録映像:少年の顔の影、瞳孔の開き。
彼の卒業論文は文学的だったが、形式は冷徹だった。
ハイデルベルク大学で博士号を得る。テーマは近代作家の精神分析。
講義室の壇上で、教授が証書を渡す。
周囲の拍手の中、彼の表情は硬い。
「博士」と呼ばれる資格を得ても、胸の奥の欠落は埋まらなかった。
戦争は終わり、敗戦国ドイツ。
通りには乞食と失業者。新聞の見出しに「共和国」の文字。
彼は群衆を見つめながら思った。
「彼らは言葉を失っている。」
そして、その沈黙の空白を埋める何かが、遠くから近づいてくる。
それはまだ名もない声——だが確かに、未来を煽動する熱を孕んでいた。
彼は、その熱を“言葉で操る者”になることを、無意識に悟っていた。
机の上には、使い古された杖。
木の節に、指の跡が残っている。
彼の一生の中で、この杖の音は“行進のリズム”へと変わっていく。
足の痛みが消えることはなかった。
だが、彼にとってそれは、現実を超えるための燃料となった。
接続終了。
映像が途切れる直前、壁の鏡に映った少年の顔がわずかに笑った。
その笑みには、哀しみよりも確信があった。
“欠けているからこそ、語れる”——彼の内部の論理は、もう始まっていた