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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2155/2254

第108章 評価・議論・記憶 ― “語られ方”との格闘(戦後–現代)



――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-07


 映写機の音が鳴っている。

 暗い部屋に一本の光の線。そこに映るのは、笑う女性、犬、山荘のテラス。

 だが、音はない。観客は、その沈黙を勝手に意味づける。

 ——1968年、ロンドンのニュース映画館。

 私は“彼女”の残したホームムービーを再生している。

 映像は明るく、服の色彩は華やかだ。

 だが、その明るさこそが、時代が彼女に貼りつけた呪文のように感じられる。


 スクリーンの外では、解説者の声が流れる。

 「ヒトラーの金髪の恋人。彼女は、悪魔に仕えた女だった。」

 観客はざわめき、笑い、時に息を呑む。

 映像はその声を裏切るように、ただ穏やかな風景を映し続ける。

 子どもたち、山、犬。

 ——戦後最初の“語り”は、この矛盾の上に成り立っていた。


 1960年代から70年代にかけて、雑誌の見出しは繰り返す。

 「悪の花嫁」「ヒトラーの影」「盲目的な愛」。

 女性週刊誌は彼女を“愚かで虚栄心に満ちた恋人”として消費し、

 歴史家は彼女を“資料の外”に置いた。

 言葉は決まっていた——「理解不能な存在」。

 だが、それは彼女を理解する努力の放棄でもあった。


 YAMATO-9の通信が入る。

 《観測データ:1960–70年代の叙述傾向=情緒化・道徳化・消費化。》

 私はうなずく。

 “歴史の声”とは、しばしば映像の明るさに負けるものだ。


 1980年代、流れが変わる。

 米国公文書館(NARA)がカラー・ホームムービーを公開。

 16mmのフィルムが初めて一般に映され、

 人々は初めて「ヒトラーの私的生活の光景」を見ることになった。

 評論家は言う——「彼女の笑顔は、戦争の影を知らぬ残酷さだ。」

 学者は言う——「これは政治の外に見える、政治そのものだ。」

 映像の“明るさ”が、むしろ恐怖の核心として語られ始めた。


 画面の中の彼女は、ただ歩き、笑い、犬を撫でている。

 だが、その笑顔が「加害の隣で無傷に残る幸福」として、

 新しい罪の形に見なされるようになった。

 ——**享受による共犯(complicity by comfort)**という言葉が、

 学会や評論の場に浮上する。


 彼女は何も決めなかった。

 だが、“決めない者が側にいた”という事実が、

 戦後社会の倫理を刺し続けることになった。


 私は映像の最後のフレームを見つめる。

 山荘のテラス、春の陽射し。

 画面右隅で、彼女がカメラを構える。

 その姿が一瞬、ファインダーに反射して映る。

 撮る者と撮られる者が、同じ像の中に重なる。

 ——その瞬間、歴史の境界が曖昧になる。


 2000年代。

 DNA鑑定を報じる番組が流れる。

 「彼女にはユダヤ系の血が流れていた可能性がある——」

 司会者の声は劇的で、画面は毛髪のサンプルを映す。

 だが、科学者のコメントは短い。

 「サンプルの真正性が確認できない。結論には至らない。」

 報道はセンセーショナルだったが、学術的根拠は脆弱だった。

 真実はまた、映像のノイズの中へ沈んでいった。


 2010年代。

 ドイツの歴史家ハイケ・B・ゲルテマーカーが新しい伝記を出す。

 『Eva Braun: Life with Hitler』。

 彼女を“愚昧な恋人”ではなく、“権力の私的領域を構成する存在”として描いた。

 社会史・ジェンダー史の文脈で再評価が進み、

 彼女は初めて「無垢でも無責任でもない中間的存在」として語られた。

 ——愛でも悪でもなく、構造の中で生きたひとりの人間。


 私は研究書のページをめくる。

 脚注の数字が並び、引用符が光る。

 そのどれもが、彼女の沈黙を言語化しようとする努力だった。

 “語られない者を語る”ことの危うさを、

 著者たちは自覚している。


 YAMATO-9が囁く。

 《現在も一次資料は生きている。写真、映像、日記断片。だが声はない。》

 私は頷く。

 ——声は、記憶の編集によってしか再生されない。


 近年の映画では、彼女は二重の姿を持つ。

 ひとつは、破滅に殉じた“悪の花嫁”。

 もうひとつは、時代に翻弄された“無言の被害者”。

 どちらも部分的に真実であり、どちらも物語である。

 『ヒトラー~最期の12日間~』では、

 俳優アレクサンドラ・マリア・ララが微笑の下に絶望を隠す。

 『Downfall』のその場面を私は再生するたび、

 スクリーンに灰色の埃が舞うように見える。

 映像が終わる瞬間、観客の胸の中で“理解できない感情”が立ち上がる。

 それこそが、彼女の後半生のすべてを支配した曖昧さなのだ。


 歴史は彼女を悪と美のどちらにも還元できなかった。

 彼女は、“決めなかった者”として残り、

 “決めなかったこと”によって、語り続けられている。

 倫理的にも美学的にも、彼女は時代の鏡のような存在になった。

 それは救いでもあり、呪いでもある。


 映写機の回転音が止まる。

 私は暗闇の中で、最後の光の粒が舞うのを見た。

 灰のように軽いフィルム片が、空気の中でゆっくり回転している。

 ——それは、燃やされた彼女の灰か、

 あるいは、まだ編集され続ける“記憶”そのものなのか。


 YAMATO-9の最終ログが残る。

 《Phase-07完了。評価:非断定的記憶。倫理波形:中庸域安定。》

 私は装置のスイッチを切る。

 スクリーンの余熱がまだ手のひらに残っている。

 そこには、かつて生きた一人の女性の姿がある。

 ——明るすぎるテラスの光、その下に隠れた沈黙。

 それが、今もなお人類が消化できない**“中間の記憶”**なのだ

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