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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2154/2229

第107章 ベルリン地下壕 ― 民事婚と最期(1945年4月)



――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-06


 空の色が変わる。

 列車の窓に貼られた遮光紙の端がめくれ、灰色の朝がのぞいた。線路の継ぎ目が一定のリズムで腹に響く。私は彼女の身体で、ミュンヘンから北へ向かっていた。

 ——1945年4月中旬。東からの砲声の帯が地平を舐め、街ごとに灯が消えていく。切符も許可も、名前の代わりに顔を通すだけでよかった。彼女が向かう先を、誰も問わなかった。


 ベルリン。湿った土と煙の匂い。崩れた壁の隙間から粉塵が舞い上がり、舌にざらつきが残る。焦げた鉄の味。

 総統官邸の地上はすでに風景の形を失い、私たちは中庭の入り口から地下へ降りた。鉄扉、狭い踊り場、粗いコンクリートの肌。階段を折り曲がるたび、空気が少しずつ冷えていく。

 長い廊下の奥、低い天井。白いランプが規則正しく並び、換気扇が浅い呼吸を続けていた。ここが“フューラー・ブンカー”。彼女はコートを脱ぎ、静かに髪を整えた。指の震えはない。ただ、時間が自分の外側で崩れているのを感じている。


 日がいくつか過ぎた。地上の轟音は連続になり、夜と昼の境目は曖昧になった。廊下では靴音が素早く往復し、部屋ごとに地図、電話、紙束。彼はときどき食事の席に現れ、短い言葉で皆をねぎらい、また消えた。

 彼女は席の並びを正し、花を挿し、来客に紅茶を注いだ。地上の季節とは無関係に、ここでは毎日、同じ手順が繰り返された。誰もそれを崩そうとはしない。秩序だけがここで生きていた。


 4月の終わり、夜が濃くなるころ、彼女は白いドレスに着替えた。布は薄く、灯の下でわずかに光を返す。廊下の向こうから、市の役人がやって来る。小柄で、手に帳面を抱え、眼鏡に煤の点がひとつ付着している。

 部屋には証人が二人。ヨーゼフ・ゲッベルスとマグダ、そしてボルマン。机の上に用意された紙。金属の蓋を外す音。万年筆のニブが紙に触れ、わずかな擦過音が生まれる。

 彼が名を書き、彼女も名を書く。姓が変わったことを役人が告げ、彼は短く頷く。

 乾杯は質素だった。薄いグラスに少しだけ注がれた泡が灯を掬い、口縁でほどける。彼は彼女の手を軽く握り、彼女は微笑んだ。その笑みには歓喜も高揚もない。ただ、長い待機に終点が与えられた、という安堵だけがあった。


 その夜のうちに、隣室で遺言が口述され、打鍵の音が絶え間なく続いた。彼女は戸口の陰に立ち、紙の束が積み上がっていくのを見ていた。廊下にはコーヒーの匂い、遠くでは再び爆音の波。

 朝が来たのかどうか、誰にも確信はなかった。時計の針だけが一方向を示し続ける。


 4月30日。

 午後、彼は黒い上着を選び、彼女は淡い色のワンピースを着た。小さな薬瓶が机の上。蓋を回すと、かすかな苦杏仁の匂いが立った。

 彼女は椅子に腰をおろし、短く息を吸う。視線は乱れない。自分の身体を確かめるように、わずかに膝の上で手を組む。

 彼は彼女に視線を向け、一言だけ何かを言った。言葉は記憶に残らない。音の輪郭だけが、空気に沈んでいく。

 彼女は頷き、薬を歯で割る。瞬間、舌に鋭い冷たさ。喉の奥で金属が弾けるような感覚。胸の中心に白い光が差し込み、四肢がほどける。

 世界が滑る。椅子の布の触感、床の模様、壁のわずかな汚れ。ひとつ、またひとつと輪郭が薄くなる。音は遠のき、彼のいる隣室で乾いた破裂音が重なった。ふたつの終わりが、ほぼ同じ瞬間に結び目を作る。


 側近たちが入ってくる。言葉は少なく、動作は速い。毛布、担架、階段。

 地下の空気から地上へ上がると、庭は黒い土の匂いを強く放っていた。穴がひとつ、風が吹き抜ける。容器からガソリンが注がれ、衣服が暗く濡れる。マッチの小さな炎が近づき、次の瞬間、光と熱が立ち上がる。

 火は顔の形を一瞬だけ浮かび上がらせ、すぐに形を失わせる。炎の音は思いのほか小さい。風の方が大きく、灰を庭の角へ運んでいく。

 私は目を閉じた。匂いが強く、喉の奥が鋭く痛む。灰が頬に当たり、すぐに消える。誰かが敬礼し、誰かが祈り、誰かがただ立ち尽くす。火は燃え続け、やがて低くなる。

 担架は戻り、扉が閉じ、地下壕は再び静かになる。換気扇の音だけが残った。


 その後の経緯を、私は断片として見る。

 崩壊後の地下室に踏み込む靴音、手袋の布、紙袋、金属の皿。検視、回収、移送。

 遺された破片はソ連側の管理下に置かれ、長く秘された。どの時点でどれだけが誰のものか、書類は互いに噛み合わない。焼却の程度、運ばれた経路、保存の方法——細部は報告ごとに食い違い、確信は薄い。

 ただ、のちに残存遺骨が焼かれ、エルベ川の支流に散灰されたという記録がある。その記録もまた、完全ではない。数行の報告と、匿名の押印と、黒いインクのにじみだけが残る。


 地下壕の灯が揺れている。

 彼女の髪の一本、ドレスの縁、指に当たった金属の感触。

 それらは私の皮膚の裏側に、いまも微かに触れている。

 彼女がベルリンに向かった動機を、私は決められない。忠誠か、愛か、運命観か、あるいは長い沈黙を自ら完結させるためか。

 いずれにせよ、彼女は“待つ人生”の終点を自分で選んだ。

 そして、その選択の痕跡は、火と風と灰のなかでほぼ消えた。

 残ったのは、わずかな署名と、短い乾杯と、最後の匂いだけだ。


 装置の光が遠のく。私は目を開ける。

 実験室の空気は乾いていて、どこにも煤の匂いはない。

 だが耳の奥では、まだ換気扇が回っている。ゆっくりと、規則正しく。

 そこに、彼女の最期の呼吸が重なっている。

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