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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2153/2187

第106章 戦時の影と記録者としての目 ― 1940年代前半(1942–1944)



――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-05


 夜の山が揺れていた。

 遠くで雷のような音が続く。

 だが、それは雷ではない。空襲の爆音。

 音は直接届かない距離にあっても、空気の震えが窓硝子をわずかに振動させる。


 遮光カーテンが閉じられた部屋。

 ランプの光だけが、小さな円を描いて揺れている。

 時計の針は午前二時を指している。

 エヴァは机に座り、便箋を開いていた。


 「Liebe Gretl——」


 彼女の筆跡がゆっくりと走る。

 文字は小さく、整っていて、慎重だった。

 “こちらは元気です。犬もよく食べています。昨日は雪が降りました。”

 それだけ。

 政治の話題も、戦況も、兵士の死も出てこない。

 封筒の裏には、“あまり外を歩かないように。ミュンヘンも危ないと聞きました。”

 ——それが、唯一の現実の言葉。


 YAMATO-9の声がかすかに混ざる。

 《波形安定。対象は感情的抑制を維持。筆記動作に集中。》

 私はその声を遮断し、彼女の手の震えを感じる。

 彼女は恐れている。

 だが、その恐れは“戦争”に向けられていない。

 それは、“外の音が彼の世界に届くこと”への恐れだった。


 翌朝。

 空は透き通るように青く、霜が木々に光っている。

 まるで夜の爆音が幻だったかのようだ。

 エヴァはテラスに出て、カメラを構える。

 ファインダーの向こうにあるのは、雪に覆われた山肌と、

 陽の光を受けて走る犬。

 写真機のシャッター音が軽やかに響く。


 その音が、私には痛々しかった。

 世界が崩壊していく最中で、

 彼女は“崩壊の外側”に光を留めていた。

 それは逃避でも欺瞞でもない。

 単に、光を選ぶことでしか存在を保てなかったのだ。


 ヒトラーはすでに前線報告に没頭していた。

 会話は短く、彼の眼差しは遠い。

 彼女は昼食を共にしながらも、ほとんど言葉を交わさなかった。

 時折、彼が地図の上に指を置き、

 「ここがモスクワだ」「これは重要な拠点だ」と説明する。

 だが、彼女の意識は、その地図の上の線ではなく、

 食卓の端に置かれた花瓶の赤いチューリップにあった。


 夜、彼女は再びミュンヘンへ戻る。

 列車の窓から見えるのは、半壊した駅舎、消えた街灯。

 それでも、帰宅すると机の上の写真立てを拭き、

 花を生け替え、日記に短く書く。


 ——「戦争は終わる。私は彼とともに生きている。」


 その一文を、私は記憶の奥で何度も繰り返す。

 “ともに生きている”という言葉は、

 実際には“ともに死に向かっている”ことを彼女自身も知っていたはずだ。


 1943年。

 ミュンヘンの空襲が激しくなる。

 防空壕の中で、彼女は妹と短い会話を交わした。

 「あなたは怖くないの?」

 「いいえ、これも神の御心よ。」

 その言葉は信仰というより、

 “恐怖の代替語”のように響いた。


 壕から出た翌朝、彼女は崩れた街角を歩きながら写真を撮った。

 焼けた看板、ひしゃげた車輪、瓦礫の上に立つ兵士。

 だが、そのフィルムのほとんどは現像されなかった。

 彼女は焼け跡よりも、空の色にレンズを向けた。

 「光のほうが本当らしい」と、後に日記に書き残している。


 彼女の写真には血も炎もない。

 笑顔、犬、花、空。

 その“明るさ”は、時代の暗さをかえって際立たせていた。

 光を選び続けることが、

 知らぬ間に体制の美学に組み込まれていった。


 YAMATO-9が静かに告げる。

 《アドリアーナ、ここが倫理的臨界点です。対象は“加担”していませんが、“享受”しています。》

 私は答えない。

 ただ、彼女の視線に残る淡い光を追う。

 その光は、罪の意識でも正義でもない。

 もっと微細な——“自分を保つための選択”だった。


 1944年。

 ベルリンの地下壕が稼働し始めた頃、

 ベルクホーフはまだ“美しい”ままだった。

 食卓には陶器が並び、ラジオからはワーグナーが流れる。

 外の戦況は惨烈だったが、

 山荘の中では時間が封じられていた。


 その冬、エヴァはヒトラーに一通の手紙を書いた。

 “私はどこへも行きません。あなたのそばにいることが私の務めです。”

 彼は短く返した。“それでよい。”

 そのやり取りを記した便箋が、後に連合軍に押収される。

 内容は単純で、しかし異様な静けさをたたえていた。


 私は思う。

 この静けさこそが、彼女の“生の音”だった。

 爆撃の轟音ではなく、カメラのシャッター音。

 崩壊ではなく、保存。

 その方向に生きた人間を、単純に断罪も擁護もできない。

 彼女は、沈黙を方法とした記録者だった。


 フィルムの中には、戦争の影が一切映っていない。

 だが、その“映らなさ”が時代の残酷さを浮かび上がらせる。

 空の青さが異様に澄んでいるほど、

 その外では煙が立ち上っていた。

 犬が跳ね、花が咲くほどに、

 街は焼け、声が消えていった。


 YAMATO-9の通信が再開する。

 《Phase-05終了。倫理判定:非加害・沈黙的享受。》

 私は深く息を吸う。

 彼女の残した光景は、今も私の網膜に焼きついている。

 “幸福の表面”は、世界が壊れる音を吸い込んで輝いていた

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