第106章 戦時の影と記録者としての目 ― 1940年代前半(1942–1944)
――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-05
夜の山が揺れていた。
遠くで雷のような音が続く。
だが、それは雷ではない。空襲の爆音。
音は直接届かない距離にあっても、空気の震えが窓硝子をわずかに振動させる。
遮光カーテンが閉じられた部屋。
ランプの光だけが、小さな円を描いて揺れている。
時計の針は午前二時を指している。
エヴァは机に座り、便箋を開いていた。
「Liebe Gretl——」
彼女の筆跡がゆっくりと走る。
文字は小さく、整っていて、慎重だった。
“こちらは元気です。犬もよく食べています。昨日は雪が降りました。”
それだけ。
政治の話題も、戦況も、兵士の死も出てこない。
封筒の裏には、“あまり外を歩かないように。ミュンヘンも危ないと聞きました。”
——それが、唯一の現実の言葉。
YAMATO-9の声がかすかに混ざる。
《波形安定。対象は感情的抑制を維持。筆記動作に集中。》
私はその声を遮断し、彼女の手の震えを感じる。
彼女は恐れている。
だが、その恐れは“戦争”に向けられていない。
それは、“外の音が彼の世界に届くこと”への恐れだった。
翌朝。
空は透き通るように青く、霜が木々に光っている。
まるで夜の爆音が幻だったかのようだ。
エヴァはテラスに出て、カメラを構える。
ファインダーの向こうにあるのは、雪に覆われた山肌と、
陽の光を受けて走る犬。
写真機のシャッター音が軽やかに響く。
その音が、私には痛々しかった。
世界が崩壊していく最中で、
彼女は“崩壊の外側”に光を留めていた。
それは逃避でも欺瞞でもない。
単に、光を選ぶことでしか存在を保てなかったのだ。
ヒトラーはすでに前線報告に没頭していた。
会話は短く、彼の眼差しは遠い。
彼女は昼食を共にしながらも、ほとんど言葉を交わさなかった。
時折、彼が地図の上に指を置き、
「ここがモスクワだ」「これは重要な拠点だ」と説明する。
だが、彼女の意識は、その地図の上の線ではなく、
食卓の端に置かれた花瓶の赤いチューリップにあった。
夜、彼女は再びミュンヘンへ戻る。
列車の窓から見えるのは、半壊した駅舎、消えた街灯。
それでも、帰宅すると机の上の写真立てを拭き、
花を生け替え、日記に短く書く。
——「戦争は終わる。私は彼とともに生きている。」
その一文を、私は記憶の奥で何度も繰り返す。
“ともに生きている”という言葉は、
実際には“ともに死に向かっている”ことを彼女自身も知っていたはずだ。
1943年。
ミュンヘンの空襲が激しくなる。
防空壕の中で、彼女は妹と短い会話を交わした。
「あなたは怖くないの?」
「いいえ、これも神の御心よ。」
その言葉は信仰というより、
“恐怖の代替語”のように響いた。
壕から出た翌朝、彼女は崩れた街角を歩きながら写真を撮った。
焼けた看板、ひしゃげた車輪、瓦礫の上に立つ兵士。
だが、そのフィルムのほとんどは現像されなかった。
彼女は焼け跡よりも、空の色にレンズを向けた。
「光のほうが本当らしい」と、後に日記に書き残している。
彼女の写真には血も炎もない。
笑顔、犬、花、空。
その“明るさ”は、時代の暗さをかえって際立たせていた。
光を選び続けることが、
知らぬ間に体制の美学に組み込まれていった。
YAMATO-9が静かに告げる。
《アドリアーナ、ここが倫理的臨界点です。対象は“加担”していませんが、“享受”しています。》
私は答えない。
ただ、彼女の視線に残る淡い光を追う。
その光は、罪の意識でも正義でもない。
もっと微細な——“自分を保つための選択”だった。
1944年。
ベルリンの地下壕が稼働し始めた頃、
ベルクホーフはまだ“美しい”ままだった。
食卓には陶器が並び、ラジオからはワーグナーが流れる。
外の戦況は惨烈だったが、
山荘の中では時間が封じられていた。
その冬、エヴァはヒトラーに一通の手紙を書いた。
“私はどこへも行きません。あなたのそばにいることが私の務めです。”
彼は短く返した。“それでよい。”
そのやり取りを記した便箋が、後に連合軍に押収される。
内容は単純で、しかし異様な静けさをたたえていた。
私は思う。
この静けさこそが、彼女の“生の音”だった。
爆撃の轟音ではなく、カメラのシャッター音。
崩壊ではなく、保存。
その方向に生きた人間を、単純に断罪も擁護もできない。
彼女は、沈黙を方法とした記録者だった。
フィルムの中には、戦争の影が一切映っていない。
だが、その“映らなさ”が時代の残酷さを浮かび上がらせる。
空の青さが異様に澄んでいるほど、
その外では煙が立ち上っていた。
犬が跳ね、花が咲くほどに、
街は焼け、声が消えていった。
YAMATO-9の通信が再開する。
《Phase-05終了。倫理判定:非加害・沈黙的享受。》
私は深く息を吸う。
彼女の残した光景は、今も私の網膜に焼きついている。
“幸福の表面”は、世界が壊れる音を吸い込んで輝いていた