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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2152/2259

第105章 ベルクホーフの日常と“陰の伴侶” ― 私的領域の儀礼(1936–1941)



――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-04


 ——光。

 それはアルプスの斜面に反射した朝の光だった。

 金属のように硬く、しかし雪を通して柔らかく拡散していく。

 その光が、山荘の白壁に当たって弾ける。

 私は、エヴァの視界の中でまばゆさに目を細めた。


 時は1936年。

 オーバーザルツベルク。標高およそ1000メートル。

 空気は乾き、硝子のように透き通っている。

 朝七時。テラスのテーブルには白いクロス、銀器、温められたミルク、そして新聞。

 彼女は白のサマー・ドレスを着て、椅子に座っていた。

 足元には犬のブロンディ。

 鼻先を膝にのせ、静かに息をしている。


 遠くから足音が近づく。

 ゲッベルス夫妻と子どもたち。

 笑い声、子どもの甲高い声。

 続いて、ヒトラーが現れる。

 彼は朝食の席に加わる前に、必ずテラスの端まで歩き、山の向こうを見渡した。

 エヴァはその間、立ち上がり、椅子を整える。

 彼が戻ると、静かにコーヒーを注ぐ。

 言葉は少ない。

 その沈黙自体が、儀礼の一部になっていた。


 《アドリアーナ、あなたが感じているのは“秩序化された私的空間”です。》

 YAMATO-9の声が小さく入る。

 だが私は応答しない。

 この場の沈黙は、外部の言葉を許さない。


 ヒトラーは客と談笑しながらも、時折、エヴァの方に目をやる。

 彼女はそれを受け止めるでもなく、逸らすでもなく、

 ただ笑みの「かたち」を保つ。

 それは愛情の表情ではなく、構造を支える微笑だった。

 招かれた者たちに“安定した私的世界”を見せるための。


 午前十時。

 彼女は16mmのカメラを手に取る。

 ライカ製の小型機。

 ファインダー越しに雪の反射光を調整しながら、

 子どもたちのスキー練習を撮る。

 笑い声、犬の足跡、白い息。

 フィルムの回転音が、かすかに山風と重なる。


 レンズの中で、ヒトラーが映る。

 厚手のコート、手袋、帽子。

 彼は笑っている。

 群衆の前の表情ではない。

 その笑顔を、彼女は黙って撮った。

 シャッターを切るたびに、

 「この光景を、誰にも見せてはいけない」

 という無言のルールが背後に存在するのを、彼女は知っていた。


 撮影を終えると、フィルムを金属ケースに収める。

 棚には数十本のケースが整然と並ぶ。

 「テラス」「雪上」「犬」「訪問客」「午後」。

 すべて分類され、日付が記されている。

 それは、国家の記録ではなく、存在の証明としての映像だった。


 午後、客人たちは散策に出かける。

 エヴァは部屋に残り、窓を開ける。

 風が入り、カーテンが揺れる。

 部屋の奥には鏡台。

 化粧品、香水、アクセサリー。

 それらは派手ではなく、整然と配置されている。

 彼女は椅子に腰を下ろし、鏡の中の自分を見つめた。

 化粧は、外の世界に向けるためではない。

 “ここ”という限られた領域の中で、

 形を保つための儀式。


 夜になると、ゲッベルス一家や映画俳優の訪問客が戻る。

 テーブルにはロウソクが灯され、食事が運ばれる。

 彼女は客人を迎え、会話の調整をする。

 ヒトラーが話題を政治に移すと、

 彼女は自然に席を立ち、ブロンディに餌を与える。

 ——その瞬間、空気が緩む。

 それもまた、彼女の役割だった。


 後年ゲッベルスの妻マグダは、

 「彼女は、あの山荘の空気を“人間の温度”に保つ唯一の存在だった」と述べている。

 政治も、戦略も、命令も、この場所では沈黙し、

 代わりに笑い声と食器の音が支配した。


 しかし、公的な場では、彼女の名は消える。

 新聞にも、行事にも、公式映像にも、彼女は写らない。

 国家の中心に最も近い場所にいながら、

 その“存在”は記録から消去されていた。


 私はその感覚を全身で感じ取る。

 「見えないということ」が、どれほど重い拘束であるか。

 ベルクホーフの光は美しい。

 しかしその美しさは、閉じられた私的秩序のための照明だった。

 彼女はその光の管理者であり、囚われ人でもあった。


 夜、来客が去ると、山荘は急に静かになる。

 外では雪が降り始めていた。

 彼女は階段を下り、テラスに出る。

 足跡をつけないように、慎重に歩く。

 遠くの山の稜線が、月光に溶けている。

 彼女はポケットからカメラを取り出し、

 ファインダーを覗く。

 光がわずかに入り、雪面が銀色に浮かぶ。

 その中に、誰もいない椅子。


 ——そこが、彼女の居場所だった。


 YAMATO-9が囁く。

 《Phase-04観測:被写体から観測者への転換。対象は“記録することで存在する”。》

 私はゆっくりと呼吸を合わせる。

 確かにそうだ。

 彼女は“写される”ことではなく、“写す”ことで自らを保った。

 自分の存在を、光の操作によって確かめる。


 1941年の冬。

 戦局は拡大していた。

 それでも、ベルクホーフの日々は変わらなかった。

 朝食の時間、犬の散歩、フィルムの整理。

 戦争は外の世界で進行していた。

 だが山荘の中では、時計の針が止まったまま。

 その停止した時間こそが、

 彼女に与えられた「生活」という名の拘束だった。


 ——私は視界を閉じる。

 光が遠ざかり、ノイズが戻る。

 山の風の音が最後に残った。

 それは呼吸のようでもあり、機械の心拍のようでもあった

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