表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2150/2347

第103章 出会いと初期接触 ― 写真館の光(1929–1932)



――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-02


 ——光が、人工のものに変わる。

 窓からの自然光ではない。

 スタジオライト。乳白色のランプが四つ、薄いベールを通して照らしている。

 空気は乾いていて、薬品のにおいがわずかに鼻を刺した。

 私はその空間に立っている。

 場所は、ミュンヘン・マクシミリアン通りにあるハインリヒ・ホフマン写真館。

 1929年、午後二時すぎ。

 外の通りには馬車と自動車が入り混じり、冬の陽光が硝子窓の縁を細く照らしていた。


 暗室のドアが少し開き、硝酸の匂いが流れ込む。

 白いエプロンをかけた若い助手たちが、現像液の温度を測り、乾板を並べている。

 私は、その中のひとり——エヴァ・ブラウンの感覚を共有していた。

 まだ17歳。

 勤め始めて半年ほど。

 ホフマンの助手兼モデル。

 アグファ社の紙箱、三脚、ガラス乾板、ラベル。

 その一つひとつの位置を彼女は正確に覚えていた。

 手を動かしながら、光を読むことを学んでいた。


 昼下がり、ドアベルが鳴る。

 事務所の奥にいたホフマンが顔を上げる。

 「Herr Hitler」

 呼び声が響き、空気が少し変わった。

 ドアの向こうに立っていたのは、黒いコートの男。

 コートの襟は高く、帽子の影が顔の半分を覆っている。

 その名はアドルフ・ヒトラー。

 当時40歳前後、まだ政党指導者のひとりにすぎない。

 とはいえ、ミュンヘンではすでに“よく知られた人物”だった。

 その声の低さ、歩き方の規則正しさ——それがまず印象に残った。


 彼女はレンズの横で光量計を手にしていた。

 ホフマンの指示で、ランプの角度をわずかに変える。

 「もう少し柔らかく」「右の光を落として」

 その声を背後で聞きながら、彼女は黙々と動く。

 その仕事ぶりは几帳面で、感情の起伏を見せなかった。

 初対面の彼に、特別な感情を抱いた証拠はない。

 ただ、彼の存在によって空気の密度が変わるのを、彼女ははっきり感じていた。

 私もそれを感じた——肺の奥の空気が、ほんの少し重くなる。


 ヒトラーは鏡の前でコートを脱ぎ、ネクタイを直す。

 黒い瞳がカメラを見据え、姿勢を正す。

 ホフマンがシャッターを切る。

 フラッシュが一瞬、白い閃光を放った。

 その光が消えた瞬間、彼は小さく咳払いをした。

 「光を、もう少し柔らかくしてくれ」

 それが、彼女の記憶に残った最初の言葉だった。

 低く乾いた声。

 命令ではなく、ほとんど独り言のような口調。

 だが、その静けさの中に、奇妙な力があった。


 撮影は一時間ほど続いた。

 その間、彼女は何度か目を合わせたが、視線が交わるたびに彼の瞳がガラスのように硬く光る。

 冷たいわけではない。

 ただ、焦点が定まっていない。

 まるで彼の視線は、目の前ではなく遠くの“構図”を見ていた。

 政治的な意味でも、写真的な意味でも。

 その「遠さ」が、彼女の記憶に焼きついた。


 撮影が終わると、ホフマンが談笑を始めた。

 エヴァは器具を片づけ、ガラス板を布で拭く。

 そのとき、背後で小さな声がした。

 「あなたは、いつもここにいるのですか?」

 それが、彼の最初の問いだった。

 彼女は短く答える。「はい、Herr Hitler。」

 彼はうなずき、視線をカメラに戻した。

 そのやりとりは、それだけ。

 ただの業務上の会話。

 だが、その短い言葉が、彼女の中でなぜか残った。

 名前を呼ばれたのではなく、「存在」を確認された感覚。


 私は彼女の胸の鼓動を感じていた。

 それは恋ではない。

 むしろ、緊張と観察のあいだの静かな覚醒。

 誰かがこちらを見ている、その感覚。

 そして、それを無視できないことの怖さ。


 数日後、ヒトラーは再び来た。

 写真の受け取りだった。

 そのとき、ホフマンの机の上に小さな包みがあった。

 白いリボンがかけられた花束と、古書。

 送り主は記録されていない。

 だが、エヴァはそれを受け取った。

 花はライラック。

 香りが強く、すぐに暗室中に広がった。

 「誰から?」

 「知らないわ。多分、お客さんの誰か。」

 彼女はそう答えたが、顔は少し赤らんでいた。


 外に出ると、ミュンヘンの街は夕暮れだった。

 アスファルトがオレンジ色に光り、店のショーウィンドウに灯りがともる。

 戦後の不安はまだ街に残っていたが、若い人々は笑い、音楽が流れていた。

 エヴァは花を抱えたまま、歩道を歩いた。

 その匂いが、家までの道のりで少しずつ薄れていく。

 家に着く頃には、ただ湿った紙の香りだけが残った。

 彼女はそれを机の上に置き、カーテンを閉めた。

 机の引き出しには、今日撮影したネガが一枚。

 彼の横顔。

 光の向こうに、表情のない影。


 ——私はその光景を彼女の視覚の裏側で見ていた。

 何も特別なことは起きていない。

 それでも、世界の“接点”が確かに生まれていた。

 仕事の場の一瞬のやり取りが、やがて彼女の人生の重力を変えていく。

 この時点で、それを知る者は誰もいなかった。

 だが、光はすでに方向を変えていた。

 被写体を照らす光が、撮影者自身をゆっくり包み込み始めていた。


 装置のノイズが微かに響く。

 接続終了の信号。

 私は息を整える。

 1932年の冬、彼女は父の拳銃を手に取ることになる。

 だが、今はまだ知らない。

 写真館のランプの下、彼女はただ光を整え、影を測っている。

 それが、自分の未来を照らすものだとは思いもせずに

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ