第102章 生い立ち ― 中間層の娘として(1912–1929)
――アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-01
光が滲む。
その輪郭がゆっくりと焦点を結ぶと、私は白い部屋の中に立っていた。
小さなベッド、刺繍入りのカーテン、壁に貼られた聖母マリアの絵。
窓の外には、雪に覆われた屋根と、朝を告げる教会の鐘の音。
1919年、ミュンヘン近郊。
彼女——エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウンは、七歳になったばかりの少女だった。
床の木目が冷たい。
白い靴下の先で木の節を踏むと、乾いた音が響く。
母の声が階下から聞こえた。
「エヴァ、早く着替えて!朝ミサに遅れるわよ!」
その声は、きびしくもやさしい。
母フランツィスカ——台所と家庭を完璧に仕切る人。
彼女の動きには一分の無駄もない。
湯を沸かし、パンを切り、家族の服を整え、玄関の鏡でリボンの結び方を直す。
家は小ぎれいで、控えめな装飾に満ちていた。
父フリッツは、工場の事務員だった。
出勤前の彼の足音は、家の中の時計のように正確だった。
新聞を折り畳み、帽子を取ると、家族全員に短く挨拶をする。
声は低く、眼鏡の奥の目は厳しかった。
彼が残した記録は少ないが、当時の中産階級男性の典型として、
勤勉・秩序・服従を尊んだと伝えられている。
エヴァの記憶の中の彼は、静かで、どこか遠い存在だった。
食卓ではほとんど口を開かず、皿の音と壁の時計の音だけが響いた。
私は、彼女の椅子に座る。
ナイフとフォークを持つと、手の震えが伝わってくる。
朝のパンの香り。
ジャムの甘さ。
だが、その甘さの奥に、家庭の中の緊張がわずかに混ざっている。
フリッツの沈黙、母の動作、姉イルゼの几帳面な咀嚼、
そして末妹グレートルの小さな笑い声——
それらが、見えない規律の糸でつながっていた。
午後になると、彼女は制服のまま通学路を歩いた。
カトリック系女学院——修道女たちが運営する静かな学校。
朝礼では神父の声が響き、少女たちは一斉に祈りを唱える。
「主よ、わたしたちに光を」
その響きは、冬の空気に吸い込まれて消えていった。
授業は退屈ではなかったが、特別な興奮もなかった。
彼女は成績中位。
音楽よりも体操が得意で、読書よりも外の光に惹かれていた。
日曜には家族で郊外へ出かけ、ピクニックの後、草の上で日光浴をした。
顔を上げ、目を閉じ、光を吸い込むようにして笑う。
私はその感覚を、彼女の皮膚の下で感じた。
——生きることが、まだ単純だった時代の光。
1923年、通学路の途中で、街角に張られた紙が目に留まる。
「国家社会主義ドイツ労働者党 集会 本日午後七時」
彼女はその紙を一瞥して通り過ぎた。
だが、その紙を貼っていた男たちの目の中に、
奇妙な熱があるのを感じたという。
その年、ミュンヘンでは“ヒトラー一派”による蜂起が起きた。
だが、エヴァはそれを知らなかった。
あるいは、知っていても、深くは考えなかった。
新聞の見出しを父が折り畳む音だけが、彼女の記憶に残った。
1926年から27年にかけて、彼女は青春期を迎えた。
ミュンヘンの街はインフレを乗り越え、わずかに活気を取り戻していた。
路面電車、カフェ、映画館。
新しいファッション、明るい色のドレス、短く切った髪。
少女たちは自由を覚え始め、
街の空気には“近代”の匂いが混ざっていた。
エヴァは流行を追った。
赤い口紅、薄いストッキング。
彼女の姿は、慎ましくも華やかだった。
政治は、遠くにあった。
通りにはデモ隊が行き交い、ラジオからは激しい演説が流れていた。
しかし彼女にとって、それは音楽のような遠い雑音だった。
歴史はすぐそばを流れていたが、まだ触れていなかった。
彼女は、ただその音を聞き流していた。
授業帰りに友人たちとカフェで笑い合い、
日曜の午後に湖で泳ぎ、スキーに行き、
光を追いかけていただけだった。
私はその光景の中に立っていた。
街のカフェ、磨かれた床、香ばしいコーヒーの匂い。
カップを持ち上げた指先の動きが、
遠い記憶のように正確に再現される。
この瞬間、彼女はまだ“ただの娘”だった。
中産階級の、穏やかで、均質な日常の中に生きていた。
しかし、その穏やかさこそが、
のちに彼女を「異常の中心」に導く土台となる——
私は、その予感を肌で感じた。
夕暮れ。
ミュンヘンの街を風が吹き抜ける。
ポスターが一枚、壁から剥がれ、足元に舞い落ちた。
そこには、初めて見る名前が印刷されている。
Adolf Hitler
そのとき、エヴァの視線はほんの一瞬、その文字に止まった。
意味を理解したわけではない。
ただ、その黒いインクの匂いだけが、なぜか強く記憶に残った。
装置の光がゆっくりと弱まっていく。
映像が消える寸前、私は最後の映像を見た。
食卓の灯、父の影、母の手、姉妹の笑い。
その平凡な幸福の中に、
“時代の胎動”が、静かに息をしていた。
それは、嵐の前の静けさ。
彼女がまだ知らない“世界の形”の前触れだった