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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2148/2254

第101章 光の残像 ― 「影」としての彼女をどう書くか



(アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-00)


 ——白い光の粒子が網膜を貫いた。

 光は静止しているのに、私は後ろへ落ちていく。

 Y-9装置の中で、私の意識は再び彼女の記憶と接続した。

 “彼女”――エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン。

 私の祖先、あるいは、血の中にかすかに残る他者。


 まず現れたのは、焼け跡の空だった。

 1945年5月。ベルリン。

 灰と煙の匂いがする。

 遠くで何かが崩れる音。

 風に乗って、焦げた木材と鉄のにおいが喉を刺した。

 空は低く、灰色の雲が流れていく。

 私はその街の上空を漂っていた——まるで、幽霊のように。

 眼下の廃墟の中心に、地下壕の入り口がある。

 そこに、彼女がいた。

 白い服、静かな横顔。

 青酸カリの苦い匂い。

 そして、闇。


 視界が反転する。

 ——突然、色があふれる。

 1938年、バイエルン・ベルクホーフ。

 山の光。

 犬のブロンディが跳ね、テラスの上に笑い声が響く。

 カメラが回っている。

 彼女が撮っているのか、撮られているのか、もうわからない。

 アグファ・カラーの粒子の中で、すべてが過剰に明るい。

 笑顔。

 陽射し。

 しかしその明るさは、どこか不自然に長く持続している。

 まるで、現実そのものが無理に“幸福”を演じているようだった。


 ——そのとき私は、彼女の呼吸を感じる。

 肺の中に吸い込まれた高地の冷たい空気。

 指先の感覚、太陽の光が腕に落ちる感触。

 そして、あの笑み。

 だが同時に、別の記憶が重なっていた。

 爆音、炎、硝煙。

 1945年の暗闇と、1938年の光が、ひとつの映像の上で交錯している。

 私はその狭間で立ち尽くした。


 声が聞こえる。

 「1912年2月6日、ミュンヘン生。1945年4月30日、ベルリン総統官邸地下壕で死。」

 それは誰かのナレーションのようであり、私自身の思考でもあった。

 “長年の私的伴侶。最期の一日にだけ正式な妻。”

 ——数字と事実の羅列。

 しかし、それだけでは彼女を描くことはできない。

 史料はあまりに少ない。

 残像だけがある。

 声は、断片的にしか残っていない。


 私はアーカイブの断片を視る。

 ——映像:彼女が撮影したホームムービー【確度A】。

 ——写真:ハインリヒ・ホフマンのカメラの前で微笑む横顔【A】。

 ——日記:1935年から1939年の間の短い手帳【A/B】。

 ——書簡:妹グレートルに宛てた手紙【A】。

 ——証言:秘書たちの断片的な回想【B】。

 ページをめくるたび、私は“欠けた声”の中へ沈んでいく。


 「彼は忙しすぎる。私は待つことに慣れてしまった」

 「私は女であることを感じたい。だが、彼のそばではそれが許されない」

 ——これが、彼女の残した“言葉”のすべて。

 私はその文字を読むのではなく、感じていた。

 胸の奥に沈むような静かな熱。

 手首の皮膚の温度。

 そこには確かに“生”があった。

 しかし、誰もそれを記録しなかった。


 光が変わる。

 カメラがまた動き始める。

 ヒトラーが犬を撫で、テラスを歩く。

 彼の姿を、彼女が撮っている。

 それとも——彼が撮らせているのか。

 その境界が、恐ろしいほど曖昧だ。

 私はその曖昧さの中に、彼女の運命の原型を見る。

 彼女は、光を浴びることで存在し、同時に光に消された。

 「光の方向を知る者」であり、「光に焦がされた影」でもあった。


 戦後の街の残響が再び聞こえる。

 50年代の新聞、写真週刊誌の紙の匂い。

 記事の見出しが浮かぶ——

 “悪魔の花嫁”、“ヒトラーに盲従した女”、“愚かな恋人”。

 どれも、彼女ではない。

 だが、そう呼ばれるたびに、ひとりの女の輪郭が削られていった。

 彼女は「罪を背負った国の慰み物」として利用された。

 声のない者の代わりに、社会が語りを上書きした。


 その後、映像がもう一度反転する。

 21世紀。学会の照明。

 私は論文発表のスライドを見ている。

 “Eva Braun: Life with Hitler”(ハイケ・B・ゲルテマーカー, 2011)

 そこには、彼女が「権力の私的領域を形成する一要素」として再評価されている。

 ヒトラーの神話の内部における、沈黙と美意識の構造。

 私はその文を読みながら、奇妙な既視感を覚える。

 まるで自分が、その沈黙の内部にいたことがあるかのように。


 ——再び、暗室の光。

 彼女のカメラのレンズが光を捕らえる。

 私は、その瞬間に立ち会っていた。

 現像液の匂い、銀塩が反応する音。

 彼女の手がわずかに震えている。

 「記録すること。それが私にできること。」

 ——声にならない声が、確かにそう言った。


 光と影は、まだ分かたれていない。

 彼女の人生は、まさにその中間にあった。

 権力の中心に触れながら、何も命じず、何も拒まない。

 だが沈黙すること自体が、すでにひとつの選択だった。


 装置が警告音を鳴らす。

 接続終了まで残り十秒。

 映像が消える前、私は見た。

 ベルクホーフのテラスに立つ彼女。

 風が髪をなびかせ、カメラのシャッターが静かに落ちる。

 そして光が溶け、全てが白に戻る。


 ——私の手の中には、何も残っていない。

 ただ、あの“影”の感触だけが、皮膚の下に残っていた

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