第101章 光の残像 ― 「影」としての彼女をどう書くか
(アドリアーナ・ブラウン=ヴァイス追体験記録 Phase-00)
——白い光の粒子が網膜を貫いた。
光は静止しているのに、私は後ろへ落ちていく。
Y-9装置の中で、私の意識は再び彼女の記憶と接続した。
“彼女”――エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン。
私の祖先、あるいは、血の中にかすかに残る他者。
まず現れたのは、焼け跡の空だった。
1945年5月。ベルリン。
灰と煙の匂いがする。
遠くで何かが崩れる音。
風に乗って、焦げた木材と鉄のにおいが喉を刺した。
空は低く、灰色の雲が流れていく。
私はその街の上空を漂っていた——まるで、幽霊のように。
眼下の廃墟の中心に、地下壕の入り口がある。
そこに、彼女がいた。
白い服、静かな横顔。
青酸カリの苦い匂い。
そして、闇。
視界が反転する。
——突然、色があふれる。
1938年、バイエルン・ベルクホーフ。
山の光。
犬のブロンディが跳ね、テラスの上に笑い声が響く。
カメラが回っている。
彼女が撮っているのか、撮られているのか、もうわからない。
アグファ・カラーの粒子の中で、すべてが過剰に明るい。
笑顔。
陽射し。
しかしその明るさは、どこか不自然に長く持続している。
まるで、現実そのものが無理に“幸福”を演じているようだった。
——そのとき私は、彼女の呼吸を感じる。
肺の中に吸い込まれた高地の冷たい空気。
指先の感覚、太陽の光が腕に落ちる感触。
そして、あの笑み。
だが同時に、別の記憶が重なっていた。
爆音、炎、硝煙。
1945年の暗闇と、1938年の光が、ひとつの映像の上で交錯している。
私はその狭間で立ち尽くした。
声が聞こえる。
「1912年2月6日、ミュンヘン生。1945年4月30日、ベルリン総統官邸地下壕で死。」
それは誰かのナレーションのようであり、私自身の思考でもあった。
“長年の私的伴侶。最期の一日にだけ正式な妻。”
——数字と事実の羅列。
しかし、それだけでは彼女を描くことはできない。
史料はあまりに少ない。
残像だけがある。
声は、断片的にしか残っていない。
私はアーカイブの断片を視る。
——映像:彼女が撮影したホームムービー【確度A】。
——写真:ハインリヒ・ホフマンのカメラの前で微笑む横顔【A】。
——日記:1935年から1939年の間の短い手帳【A/B】。
——書簡:妹グレートルに宛てた手紙【A】。
——証言:秘書たちの断片的な回想【B】。
ページをめくるたび、私は“欠けた声”の中へ沈んでいく。
「彼は忙しすぎる。私は待つことに慣れてしまった」
「私は女であることを感じたい。だが、彼のそばではそれが許されない」
——これが、彼女の残した“言葉”のすべて。
私はその文字を読むのではなく、感じていた。
胸の奥に沈むような静かな熱。
手首の皮膚の温度。
そこには確かに“生”があった。
しかし、誰もそれを記録しなかった。
光が変わる。
カメラがまた動き始める。
ヒトラーが犬を撫で、テラスを歩く。
彼の姿を、彼女が撮っている。
それとも——彼が撮らせているのか。
その境界が、恐ろしいほど曖昧だ。
私はその曖昧さの中に、彼女の運命の原型を見る。
彼女は、光を浴びることで存在し、同時に光に消された。
「光の方向を知る者」であり、「光に焦がされた影」でもあった。
戦後の街の残響が再び聞こえる。
50年代の新聞、写真週刊誌の紙の匂い。
記事の見出しが浮かぶ——
“悪魔の花嫁”、“ヒトラーに盲従した女”、“愚かな恋人”。
どれも、彼女ではない。
だが、そう呼ばれるたびに、ひとりの女の輪郭が削られていった。
彼女は「罪を背負った国の慰み物」として利用された。
声のない者の代わりに、社会が語りを上書きした。
その後、映像がもう一度反転する。
21世紀。学会の照明。
私は論文発表のスライドを見ている。
“Eva Braun: Life with Hitler”(ハイケ・B・ゲルテマーカー, 2011)
そこには、彼女が「権力の私的領域を形成する一要素」として再評価されている。
ヒトラーの神話の内部における、沈黙と美意識の構造。
私はその文を読みながら、奇妙な既視感を覚える。
まるで自分が、その沈黙の内部にいたことがあるかのように。
——再び、暗室の光。
彼女のカメラのレンズが光を捕らえる。
私は、その瞬間に立ち会っていた。
現像液の匂い、銀塩が反応する音。
彼女の手がわずかに震えている。
「記録すること。それが私にできること。」
——声にならない声が、確かにそう言った。
光と影は、まだ分かたれていない。
彼女の人生は、まさにその中間にあった。
権力の中心に触れながら、何も命じず、何も拒まない。
だが沈黙すること自体が、すでにひとつの選択だった。
装置が警告音を鳴らす。
接続終了まで残り十秒。
映像が消える前、私は見た。
ベルクホーフのテラスに立つ彼女。
風が髪をなびかせ、カメラのシャッターが静かに落ちる。
そして光が溶け、全てが白に戻る。
——私の手の中には、何も残っていない。
ただ、あの“影”の感触だけが、皮膚の下に残っていた