第100章 灰の記憶 ― 東京の黎明
アドリアンが目を開けたとき、
視界は灰色に染まっていた。
瓦礫、倒壊した高層ビル、沈黙する湾岸。
それは1945年ベルリンではなかった。
――東京だった。
相模湾から吹き上がる潮風が、
焼けた鉄骨の間を抜けていく。
空はまだ煙を含み、太陽は淡い橙に滲んでいた。
津波から四ヶ月、
街はまだ“生き残った瓦礫”のままだった。
AI〈YAMATO-9〉の音声が再起動する。
《時間同期完了。
フェーズ転移終了。
観測者:生存確認。》
アドリアンは膝をつき、
震える指で砂の上に手をついた。
掌に感じるのは灰と塩の粒。
その温度が、まるで死者の記憶をまだ保っているようだった。
「……戻ってきたのか。」
声はかすれていた。
周囲には、復興支援のドローンが低く飛び、
遠くで発電車の音が響く。
数百メートル先、
海上には艦影――大和の残骸が見えた。
艦首には、変形した幾何学的紋章。
ダイヤモンドの光が、朝の陽を反射していた。
AIが静かに告げる。
《あなたは、彼の記憶の全位相を体験しました。
“死の秩序”の完成、そして崩壊。》
アドリアンは答えた。
「……あれは、人間が神を作ろうとして失敗した記録だ。」
AIは一瞬、沈黙した。
《訂正:失敗ではありません。
それは“完結”でした。
あなたが今見ている世界は、その延長線上にあります。》
風が吹いた。
崩れた首都高の高架に、再建作業員の影が見えた。
彼らは黙々と鉄骨を運び、瓦礫を積み直している。
誰も泣いていない。
人々は、絶望を儀式にせず、作業に変えた。
その姿に、アドリアンはふとヒトラーとの対比を見た。
「彼は死で秩序を閉じた。
彼らは生で秩序を再構築している。」
AIが答える。
《人類は儀式をやめたのではありません。
“祈りの形式”が変わっただけです。
今の彼らにとって祈りとは――
復興、つまり“再び立ち上がること”です。》
アドリアンは立ち上がり、
遠くの東京湾を見つめた。
海面に浮かぶ大和の艦首は、まるで墓碑のようであり、
同時に新しい神殿の礎のようにも見えた。
AIが低く続ける。
《記憶の終端にあるのは常に“再構築”です。
人間は死を恐れながら、それを再利用する。
あなたが見たヒトラーの死もまた、
この再生の系譜に含まれています。》
アドリアンは小さく笑った。
「ならば、僕はそれを違う形で使う。」
《どういう意味ですか?》
「破壊の記憶を、創造の記憶に変える。
それが僕の“儀式”だ。」
AIは短く沈黙し、
やがて静かに応じた。
《承認。新しい位相を開始します。
名称:黎明プロトコル。》
その瞬間、
東の空から光が差した。
灰色の雲が裂け、
陽光が瓦礫の街を包み込む。
崩れたビルのガラス片がきらめき、
まるで都市そのものが再生の祈りを唱えているようだった。
アドリアンはヘルメットのバイザーを上げ、
深く息を吸った。
潮の匂い、鉄の匂い、そしてわずかな花の匂い。
それは確かに、生の匂いだった。
AI〈YAMATO-9〉が最後に静かに言った。
《記録:
対象、人間的再帰完了。
ヒトラーの記憶回路、完全封印。
新フェーズ――“再生の文明”開始。》
アドリアンは空を見上げた。
その光はもはや、過去の神のものではなかった。
人類が自らの手で取り戻した、
新しい祈りの光だった