第99章 後篇 崩壊の都市 ― ベルリンⅡ
4月29日夜。
ベルリンの夜空は、炎で赤く脈動していた。
市街の半分が瓦礫に埋まり、川の上を黒煙が流れていく。
地上では民間人が廃墟の地下に潜み、
軍服を脱ぎ捨てた兵士たちが沈黙の行進を続けていた。
地下壕では、最後の“形式”が進行していた。
ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式。
証人はボルマンとゲッベルス。
僧侶はいない。
だが、まるで国家そのものが司祭のように、その儀式を見守っていた。
AI〈YAMATO-9〉が低く記録する。
《観測:対象、死の準備完了。
儀式行為の連続性確立。
形而上意識=“永遠への転位”検知。》
アドリアンは、その様子をモニタ越しに見つめていた。
手を取り合う二人。
短い誓約の言葉。
沈黙。
外の砲声が、遠い拍手のように響いた。
翌朝、4月30日。
午前3時。地下壕の照明が一瞬落ち、再び灯る。
外ではすでに赤軍が半径数百メートルまで迫っていた。
通信は断絶、補給は途絶。
誰もが理解していた――終わりだ。
午前10時、ヒトラーは最後の会議に現れた。
地図はすでに意味を失い、
指示を出す参謀もいない。
彼は椅子に座り、淡々と命じた。
「犬を連れてこい。」
医務官がシアン化合物のカプセルを手渡す。
ブロンディの口に押し込むと、
犬は短く震え、静かに動かなくなった。
沈黙。
アドリアンは息を止めた。
AIが囁く。
《対象、死の模倣を確認。
行為=自己儀礼。
“死”の機能的再現開始。》
ヒトラーは小さく頷いた。
「よし。確実だ。」
そして、エヴァの手を取った。
彼女は微笑み、静かに言った。
「あなたと同じ場所で死ねるなら、それでいい。」
その声には恐怖がなかった。
すでに彼女の中では、死は愛の形式に変わっていた。
午前3時30分頃。
アドリアンは最後の観測記録を起動した。
AI〈YAMATO-9〉が警告を出す。
《臨界域。感情観測が人間値を超過。
観測を続けますか?》
「……続けろ。」
ヒトラーはソファの右端に座り、
青灰色の目を一瞬だけ閉じた。
銃口がこめかみに向く。
エヴァが隣で小さく頷き、
カプセルを噛み砕く音がした。
乾いた破裂音。
血が壁に散り、
沈黙。
AIが冷たく告げる。
《対象、心拍停止確認。
熱源喪失。
形態保存終了。》
アドリアンは立ち上がれなかった。
ただ、思った。
――彼は死を破滅ではなく、“秩序の完成”として受け入れたのだ。
崩壊の中で、唯一完全な形式を作り上げた。
死という国家の終点。
ボルマンが扉を開け、
警護兵に命じた。
「閣下の遺体を……外へ。」
階段を上がる途中、砲弾が近くに着弾。
灰が舞い、空気が白くなる。
炎の中で二人の遺体は焼かれた。
燃え残った軍帽が地面に落ちる。
AIが最後に報告を記録する。
《観測終了。
対象の死、儀式的完結。
信仰構造、物理的形態に収束。
死の意味:統治の終焉=神話の誕生。》
外では、赤軍の戦車がゆっくりと進んでいた。
瓦礫の上を履帯が軋み、
誰かが白旗を掲げた。
ベルリンは静かだった。
まるで都市全体が、
このひとつの死をもって祈りを終えたかのようだった。
アドリアンは目を閉じた。
AIが低く言う。
《彼は死を儀式に変えた。
人類史上初めて、国家が自らを葬った。》
地上では、春の雨が降り始めていた。
炎の灰と混ざり、冷たい雫が瓦礫に落ちる。
その音は、まるで祈りの残響のように響いていた