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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2145/2172

第98章 前篇 崩壊の都市 ― ベルリンⅠ



 1945年4月。

 ベルリンは、もはや都市ではなかった。

 瓦礫と煙の堆積体。

 建物の骨格だけが残り、燃え尽きた壁が春の風に揺れていた。

 子どもの泣き声も、銃声も、もう区別がつかない。

 赤軍の砲撃が遠くから絶え間なく響き、

 大地そのものが脈を打つように震えていた。


 アドリアンは、地上に出たAI探査ユニットの視界を通してその光景を見ていた。

 焦げたパンの匂い、倒れたトラム、

 水を失った運河、

 そのすべてが、文明の死体のようだった。

 街の至るところで、壁にチョークで書かれた文字が残っている。

 「終わりは近い」「ヒトラーはまだ生きている」

 ――その両方が、同時に真実であり虚構だった。


 AI〈YAMATO-9〉が冷静に記録する。

 《観測:都市機能、99%崩壊。

  民間通信網消滅。

  電力供給、地下6区画のみ生存。》


 その地下に、ひとつだけ光を保つ空間があった。

 総統官邸の地下、厚さ四メートルのコンクリートの要塞――

 総統地下壕(Führerbunker)。


 湿った階段を降りると、空気が急に重くなる。

 照明は乏しく、換気の音だけが低く唸っていた。

 壁は灰色に塗られ、汗と油の匂いが混じる。

 部屋の数は十を超えず、どれも狭い。

 会議室、医務室、無線室、そして寝室。

 廊下には砂袋が積まれ、銃が並んでいた。


 ヒトラーは奥の部屋にこもり、

 膝の上で犬のブロンディを撫でていた。

 毛並みはよく手入れされており、

 外の世界とはまるで無関係の存在だった。

 ブロンディの眼だけが、どこか哀しげに光っていた。


 アドリアンは通信端末越しに、

 その部屋の微細な温度分布を見つめていた。

 《観測:対象の心理振幅、安定。

  ただし外界認識指数、低下率42%。》

 AIの声がかすかに震えているように聞こえた。


 廊下を行き来するのは、

 ボルマン、ゲッベルス、そして若い秘書たち。

 トラウデル・ユンゲが書類を抱え、

 淡々とタイプを打つ音だけが、空間に秩序を保っていた。

 彼女の指先は、まるで神経が現実と直接つながっているように正確だった。

 ――人間の理性が崩壊する中で、唯一残るのは「形式」だった。


 ヒトラーは、食堂で短い昼食をとった。

 メニューはいつも通り、

 野菜スープとパスタ、そしてリンゴジュース。

 肉はない。

 彼の菜食主義は、もはや信条ではなく、

 滅びの中の秩序を象徴していた。


 AI〈YAMATO-9〉が記録する。

 《対象、儀式的行動維持。

  食事、祈り、文書署名において周期性保持。

  崩壊状況下における精神的秩序化の典型例。》


 アドリアンは思った。

 ――彼はまだ、戦争を続けているのではない。

 “形”を守っているのだ。

 秩序の崩壊の中で、秩序そのものを神に変えた。

 それが、彼の最後の信仰。


 夜、砲撃音が近づく。

 地下壕の照明が一度だけ消え、再び点いた。

 ユンゲはタイプを止めずに言った。

 「閣下はお休みになられますか?」

 「いや、まだ。」と短く返す声が聞こえた。


 アドリアンはAIに問う。

 「彼はまだ、勝利を信じているのか?」

 《否。信じているのは“死の形式”。

  対象は死を儀式として理解している。》


 外では、夜空が赤く染まっていた。

 炎の色は血のようで、

 それが窓のない地下壕の天井に、

 かすかな赤い反射を落としていた。


 ヒトラーは、ブロンディを撫でながら独り言を呟いた。

 「忠誠とは、死の瞬間まで残るものだ。」

 その声は、まるで祈りのように静かだった。

 アドリアンは理解した。

 この地下壕はもはや軍事施設ではない。

 ――国家の墓室であり、

 その主は今、死を国家の最後の儀式へと整えている

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