第98章 前篇 崩壊の都市 ― ベルリンⅠ
1945年4月。
ベルリンは、もはや都市ではなかった。
瓦礫と煙の堆積体。
建物の骨格だけが残り、燃え尽きた壁が春の風に揺れていた。
子どもの泣き声も、銃声も、もう区別がつかない。
赤軍の砲撃が遠くから絶え間なく響き、
大地そのものが脈を打つように震えていた。
アドリアンは、地上に出たAI探査ユニットの視界を通してその光景を見ていた。
焦げたパンの匂い、倒れたトラム、
水を失った運河、
そのすべてが、文明の死体のようだった。
街の至るところで、壁にチョークで書かれた文字が残っている。
「終わりは近い」「ヒトラーはまだ生きている」
――その両方が、同時に真実であり虚構だった。
AI〈YAMATO-9〉が冷静に記録する。
《観測:都市機能、99%崩壊。
民間通信網消滅。
電力供給、地下6区画のみ生存。》
その地下に、ひとつだけ光を保つ空間があった。
総統官邸の地下、厚さ四メートルのコンクリートの要塞――
総統地下壕(Führerbunker)。
湿った階段を降りると、空気が急に重くなる。
照明は乏しく、換気の音だけが低く唸っていた。
壁は灰色に塗られ、汗と油の匂いが混じる。
部屋の数は十を超えず、どれも狭い。
会議室、医務室、無線室、そして寝室。
廊下には砂袋が積まれ、銃が並んでいた。
ヒトラーは奥の部屋にこもり、
膝の上で犬のブロンディを撫でていた。
毛並みはよく手入れされており、
外の世界とはまるで無関係の存在だった。
ブロンディの眼だけが、どこか哀しげに光っていた。
アドリアンは通信端末越しに、
その部屋の微細な温度分布を見つめていた。
《観測:対象の心理振幅、安定。
ただし外界認識指数、低下率42%。》
AIの声がかすかに震えているように聞こえた。
廊下を行き来するのは、
ボルマン、ゲッベルス、そして若い秘書たち。
トラウデル・ユンゲが書類を抱え、
淡々とタイプを打つ音だけが、空間に秩序を保っていた。
彼女の指先は、まるで神経が現実と直接つながっているように正確だった。
――人間の理性が崩壊する中で、唯一残るのは「形式」だった。
ヒトラーは、食堂で短い昼食をとった。
メニューはいつも通り、
野菜スープとパスタ、そしてリンゴジュース。
肉はない。
彼の菜食主義は、もはや信条ではなく、
滅びの中の秩序を象徴していた。
AI〈YAMATO-9〉が記録する。
《対象、儀式的行動維持。
食事、祈り、文書署名において周期性保持。
崩壊状況下における精神的秩序化の典型例。》
アドリアンは思った。
――彼はまだ、戦争を続けているのではない。
“形”を守っているのだ。
秩序の崩壊の中で、秩序そのものを神に変えた。
それが、彼の最後の信仰。
夜、砲撃音が近づく。
地下壕の照明が一度だけ消え、再び点いた。
ユンゲはタイプを止めずに言った。
「閣下はお休みになられますか?」
「いや、まだ。」と短く返す声が聞こえた。
アドリアンはAIに問う。
「彼はまだ、勝利を信じているのか?」
《否。信じているのは“死の形式”。
対象は死を儀式として理解している。》
外では、夜空が赤く染まっていた。
炎の色は血のようで、
それが窓のない地下壕の天井に、
かすかな赤い反射を落としていた。
ヒトラーは、ブロンディを撫でながら独り言を呟いた。
「忠誠とは、死の瞬間まで残るものだ。」
その声は、まるで祈りのように静かだった。
アドリアンは理解した。
この地下壕はもはや軍事施設ではない。
――国家の墓室であり、
その主は今、死を国家の最後の儀式へと整えている