第97章 後篇 爆音のあとで
時刻、12時42分。
その瞬間、時間が一度だけ呼吸を止めた。
そして――
閃光。
木造の会議室が、内側から膨張するように弾けた。
爆風が空気を押しつぶし、窓ガラスが内側に飛び散る。
炎ではなく、光そのものが爆ぜたのだ。
耳鳴り。
白い閃光の後に、濃い灰色の煙が流れ込み、
地面が波打つように揺れた。
アドリアンはとっさに床に伏せた。
頬に木片が刺さり、血が滲む。
AI〈YAMATO-9〉の音声が断片的に流れる。
《圧力波検知。衝撃値12.4メガパスカル。
対象生存率:3%以下――》
視界は白と黒の交錯。
机が倒れ、紙が燃え、地図が宙に舞う。
煙の中で、呻き声と、金属が軋む音。
焼けた木の匂い。
人間の皮膚が焦げる匂い。
その中で、
一つの声だけが、異様に明瞭だった。
「……神が、私を守った。」
ヒトラーだった。
彼は左袖を裂かれながらも、立っていた。
髪は乱れ、耳から血を流していた。
だが、その目は異様に澄み、
炎の光を映していた。
アドリアンは息を呑んだ。
その光は、狂気ではない。
確信の光――自らが“選ばれた者”であるという、静かな狂信の輝き。
周囲では、参謀たちが倒れていた。
足を失った者、口から血を吐く者。
しかしヒトラーは、
まるで戦場の天啓を受けた預言者のように、
ひとり炎の中に立っていた。
AIが再起動する。
《観測継続:対象の心理波形、宗教的同化。
信仰体系と権力体系の完全融合開始。》
ヒトラーは焦げた机の上に手を置き、
崩れかけた壁を背に言った。
「神は私を導いている。
これは運命の証明だ。」
その声は震えていなかった。
爆音の余韻を吸い込みながら、
まるで舞台の幕が開いた後の静けさのように響いた。
アドリアンの耳には、血の鼓動だけが残っていた。
世界が崩壊しても、彼の言葉だけが構造を保っている。
それが恐ろしかった。
――この男は、奇跡を“証明”として使う。
人間の偶然を、神の計画に変えてしまう。
外では兵士たちが走り回り、
煙の向こうから救護兵が叫んでいた。
「閣下はご無事か!?」
ヒトラーは頷き、短く答えた。
「私は不滅だ。」
AIが冷たく分析する。
《対象、自己保存欲求を神話化完了。
“神に選ばれた者”という論理構造を
自我防衛システムに統合。》
煙が晴れるにつれ、
森の光が再び室内に差し込んだ。
倒れた机の脚――
あの鞄を押しやった位置が、
爆風の軌道を逸らしていた。
ほんの数十センチ。
それが、生と死を分けた。
アドリアンは思った。
神が選んだのではない。
偶然が、彼を選んだのだ。
しかし彼はその偶然を神の言葉として受け取った。
その瞬間、歴史は修正不能の軌道に入った。
AI〈YAMATO-9〉が最後に低く告げる。
《ここで宗教と狂信が合体する。
“信仰”という形態が、倫理を超えて機能を持った。
以後、殺戮は“祈り”として行われる。》
ヒトラーは外へ出た。
陽光が顔に当たる。
風が血の匂いを拡散させていく。
その風を吸い込み、彼は言った。
「神は、再びドイツを試している。」
アドリアンはその背中を見送った。
人間が“神の声”を発する時、
それは必ずしも信仰ではない――
自らの狂気に耐えるための翻訳装置だ。
森の中に雷が鳴った。
その音は、まるでこの地そのものが
人間の誤解を訂正しようとするかのようだった