第96章 ―前篇 森の密議
1944年7月20日、午前十時。
ヴォルフスシャンツェの森は、いつになく静かだった。
霧が薄れ、湿った空気の中に陽光が差し込む。
その光はまるで、何かを見逃してはならないと告げるようだった。
アドリアンは司令棟の外壁に立ち、遠くからヒトラーの執務区画を見つめていた。
AI〈YAMATO-9〉が低く囁く。
《位相変調。空間の圧、通常より13%低下。異常な静寂。》
その静けさの中心に、一人の男が現れた。
左腕の袖が空虚に垂れ下がっている。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐。
砂漠戦線で片腕と片目を失いながらも、なお毅然と立つ将校。
義眼の奥に宿る光は、怒りとも悲哀ともつかない透明な色をしていた。
「総統会議は予定通りか?」
彼の声は抑えた低音で響く。
副官が答える。「はい、十一時三十分から。場所は木造の仮設バラックです。」
「……地下壕ではないのか?」
「この暑さでは中は蒸し風呂です。総統が外を望まれました。」
その一言で、運命の針が音もなく動いた。
アドリアンはその会話を遠くから聞きながら、
AIのデータが微かに乱れるのを感じた。
《変数更新:爆風減衰率、45%低下予測。》
まだ何も起きていないのに、すでに“歴史”は組み替わっていた。
午前十一時五十五分、バラック会議室。
湿った木の香り。
地図が張られた壁。
狭い空間に二十名近い参謀たちが詰め込まれている。
窓は開け放たれ、陽光が斜めに差し込んでいた。
シュタウフェンベルクは静かに席につくと、
傍らの鞄を机の脚元にそっと置いた。
中には、時限信管付きの爆薬。
手袋をした義手の指先が、わずかに震えていた。
「閣下はすぐにお見えになる。」
参謀の一人が告げる。
空気が一瞬、張り詰める。
木造の床板が軋む音すら、鼓動のように響いた。
ヒトラーが入室した。
灰色の軍服、無表情の顔、整然とした歩み。
彼の視線が室内を横切るたびに、参謀たちの背筋が硬直する。
アドリアンの視界が微かに滲む。
AIが囁く。
《ここから先は“意図”と“偶然”の境界です。観測を続行しますか?》
「……もちろんだ。」アドリアンは答えた。
「だが、もし神がいるなら、今は沈黙している。」
会議が始まった。
ヒトラーの声は落ち着いていた。
「連合軍の上陸は一時的な現象だ。
我々が東部を押さえる限り、ドイツの心臓は生きている。」
その言葉が終わる頃、シュタウフェンベルクの義手が再び動いた。
彼は小さく立ち上がり、
「閣下、少々失礼を。電話が本部から――」と告げる。
彼の手は、鞄の取っ手を一度だけ握り、放した。
――その瞬間、別の将校が動いた。
「この位置では通れませんね、失礼。」
そう言って、鞄を机の反対側へ押しやった。
その机の脚が、爆風を遮る唯一の盾になるとは、
その時、誰も知らなかった。
AIが静かに記録する。
《因果の偏差、確定。
“生存”の変数、閾値を超過。》
森の外では、雷鳴が一度だけ鳴った。
誰も気づかなかった。
だがその音は、
これから起こる爆音の予兆として、森の湿気の中に確かに残っていた