第95章 ヴォルフスシャンツェ ― 森の要塞
1944年初夏。東プロイセンの深い森の奥――
湿った針葉樹が空を塞ぎ、霧が地面を這っていた。
空気は冷たく、呼吸のたびに鉄と苔の匂いが鼻を刺す。
外界の時間は、ここではもう通用しなかった。
森は沈黙していた。
地面は常に湿り、足を踏み入れるたびに水がにじみ出た。
苔と泥が混ざり合い、腐葉土の匂いが重く空気に漂う。
霧は朝から晩まで森を覆い、木々の上半分を隠していた。
光は届かず、昼なお夜のようだった。
倒木の裂け目からは白いキノコが群生し、
水面には油膜のような光が浮かんでいる。
風が吹くと霧が裂け、
巨大な松の幹が闇の柱のように現れる。
どの方向にも同じ景色が続き、
ここでは方位という概念すら曖昧だった。
湿地の底では蛙が短く鳴き、
遠くで鴉が一声だけ鳴いた。
その声が消えると、
世界は再び水と霧の音だけになった。
人間の声は、この森の中では異物のように響いた。
――まるで自然そのものが、
この地下に潜む狂気を見下ろしているかのように。
その中心に築かれたのが、鉄とコンクリートの迷宮。
名を〈ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)〉。
総統ヒトラーの最終司令本部であり、世界戦争の中枢だった。
森の地面には無数のバンカーが埋まり、
厚さ二メートルの壁が、爆撃にも耐えるように設計されている。
電信線と地下ケーブルが複雑に張り巡らされ、
それらは地中の血管のように静かに唸っていた。
発電機の低い振動が壁を伝い、
要塞全体が巨大な生き物のように脈動していた。
アドリアンはその空気を吸い込み、
胸の奥に鈍い重さを感じた。
――ここは都市ではない。国家の影だ。
ヒトラーの意識そのものが、物質化した場所。
AI〈YAMATO-9〉が低く記録する。
《Phase-14開始。観測:対象環境=自己防衛構造。
空間構造に心理的同型性。要塞=恐怖の具現。》
湿気は壁の奥まで染み込み、
金属の匂いが鼻腔にこびりつく。
通路の奥では、参謀たちの足音が交錯し、
だが誰も声を上げない。
ここでは沈黙が秩序であり、
言葉はいつでも処罰の導火線になり得た。
ヒトラーの執務室は、木製の天井と粗末な机、
厚いカーテンで塞がれた窓がひとつ。
その机の上には地図と赤鉛筆。
だが、赤い線はすでに前進を示さず、
押し返される矢印が密集していた。
ヒトラーは地図を睨みつけたまま、動かない。
沈黙が長く続く。
参謀たちはその沈黙の重みを知っていた。
怒号の前触れ――いや、崩壊の予兆。
彼の中の「世界」は、すでに音を失っていた。
AIが告げる。
《対象、現実との整合性を喪失。
発話内容の半数が象徴化・神話化傾向。
自我=“狼”としての擬人化進行。》
“狼”――それはヒトラーが自らを呼ぶ名でもあった。
若いころから「アドルフ・ヴォルフ」と署名する癖があった。
孤独、狩人、本能、そして支配。
この森の要塞は、
その「狼の精神」が建築化されたものだった。
夜。
アドリアンは湿った空気の中で、
壁に映るヒトラーの影を見つめていた。
光は弱く、影は巨大に揺れていた。
――支配とは、光の角度でしか維持できない幻影。
その言葉が心の奥に沈む。
外では雨が降り始めた。
風が通路を吹き抜け、木々を鳴らす。
遠雷が響くたび、参謀たちはわずかに顔を上げる。
誰もが感じていた。
この要塞は、もはや防御のためではなく、
崩壊の予行として存在しているのだと。
AI〈YAMATO-9〉が静かに囁く。
《観測:臨界域接近。対象、宗教的統合へ移行中。
恐怖と信仰の融合が開始。》
ヒトラーは夜の通路を歩く。
湿った床板が軋む音が、祈りのように続く。
「敵は外にいない……中にいる。」
その呟きが、霧とともに吸い込まれていった。
アドリアンの背筋を冷たいものが走る。
――ここでは、現実よりも幻聴の方が真実に近い。
壁に反響するその声は、
まるで森そのものが彼の心の洞窟であるかのようだった。
AIが最後に記録する。
《Phase-14完了。
対象、完全防衛モード移行。
環境=心理=宗教的閉鎖空間化。
次段階:“爆心”事象発生予兆。》
雨が止み、森は再び静まり返る。
霧の中で、稲光が一筋走った。
その閃光は、
やがてこの要塞を貫く「爆音」の予告のように見えた。