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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2141/2276

第94章 沈黙する参謀



 1943年、ベルリン。

 戦争の天秤が、音もなく傾きはじめていた。

 参謀本部の長机の上、地図に引かれた赤い線が、

 少しずつ、しかし確実に押し戻されている。

 ロシア、イタリア、北アフリカ――すべての前線で後退。

 その光景はもはや戦略図ではなく、

 崩壊の地形図のように見えた。


 ヒトラーはその地図の前に立っていた。

 顔は蒼白で、指先が震えている。

 参謀たちは黙って立ち、誰も目を合わせない。

 室内は熱気と沈黙に満ちていた。

 外の空は鉛色。

 遠くで防空警報のサイレンが鳴る。


 AI〈YAMATO-9〉が記録する。

 《Phase-13開始。観測:対象の認知構造に断層発生。

  外的現実と内的演出の不整合、臨界域到達。》


 ヒトラーの声が突然響いた。

 「なぜだ! なぜ我々が退く!

  命令を伝えたはずだ、最後の一人まで死守せよ!」

 拳が地図を叩く。

 机の上の赤い駒が散り、紙が揺れる。

 だが、その声は怒りではなかった。

 アドリアンには、それが恐怖の叫びに聞こえた。


 “彼は現実に怯えている。”

 アドリアンの胸に、重い確信が落ちた。

 これまで彼はヒトラーの中に狂気を見てきた。

 しかし今、その狂気の下にあるのは――恐怖だった。

 支配が崩れる恐怖。

 世界が自分の意志から離れていくという感覚。


 AIが静かに告げる。

 《支配者は、最初の被支配者です。

  彼は世界を支配しようとして、自らその演出に囚われた。

  いま彼は、自身の神話の囚人となっています。》


 参謀たちは沈黙していた。

 誰も口を開かない。

 否定すれば怒号が飛び、

 同意すれば現実を否認することになる。

 沈黙だけが唯一の生存手段だった。


 アドリアンはその場に立ち尽くす。

 部屋の隅で時計が鳴る。

 秒針の音が、戦場の銃声よりも重く響いた。

 ヒトラーは椅子に崩れ落ちるように座った。

 額に汗が浮かび、呼吸が荒い。

 「裏切り者がいる。

  誰かが、我々の夢を壊そうとしている。」

 その声はかすれ、

 まるで闇の中に自分の神を探す信者のようだった。


 AI〈YAMATO-9〉が内部解析を更新する。

 《観測:恐怖の対象=現実そのもの。

  対象、自我維持のため“陰謀”を外部化。

  自己崩壊防止の防衛反応。》


 アドリアンは、彼の手にある鉛筆の震えを見た。

 その指先は、かつて世界を動かした男のものとは思えなかった。

 「この手が、神の意志を描くと言っていたのに――」

 その言葉が口をついて出た瞬間、

 AIが応えた。

 《神の意志とは、恐怖の裏側にある秩序欲求です。

  恐怖が強ければ強いほど、秩序の幻影は強くなる。》


 窓の外で雷鳴が響く。

 空は暗く、雨が降り出した。

 ヒトラーは立ち上がり、

 地図の端に滲む赤いインクを指でなぞった。

 「これは……まだ消えていない。」

 その声は、子供のように弱々しかった。

 アドリアンは思った。

 ――彼は、もはや世界を支配していない。

  ただ、“自分の恐怖”を統治しているだけだ。


 参謀たちは沈黙を守る。

 誰も席を立たない。

 この沈黙こそ、崩壊した帝国の残骸だった。

 ヒトラーは再び口を開く。

 「敗北という言葉は、私の辞書にはない。」

 AIが静かに記録する。

 《観測:言語の意味機能、象徴構造へ退化。

  対象、自己を言葉の檻に封印。》


 アドリアンは目を閉じた。

 怒号のあとに訪れる沈黙。

 それは、国家全体が息を止めるような沈黙だった。

 恐怖は感染し、空気の粒子のように部屋を満たしていた。

 AIの声が低く響く。

 《支配の本質とは、恐怖の共有です。

  そして、恐怖を最初に共有するのは――支配者自身です。》


 外の雨が激しさを増す。

 雷が地を揺らし、窓が震える。

 ヒトラーはその音に怯えたように目を伏せた。

 アドリアンは、

 この男がついに“神の仮面”を剥がされたことを悟る。

 彼はもはや創造者ではなく、

 自ら築いた幻の城に閉じ込められた最初の囚人だった。


 やがて、すべてが静まった。

 時計の音が戻る。

 参謀たちは立ち上がらず、

 誰も言葉を発さなかった。

 ただ一つ、AIの冷たい声が記録を締めくくる。


 《Phase-13完了。

  観測:支配者、自己神話の内部崩壊を開始。

  狂気の終焉は、恐怖から始まります。

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