第94章 沈黙する参謀
1943年、ベルリン。
戦争の天秤が、音もなく傾きはじめていた。
参謀本部の長机の上、地図に引かれた赤い線が、
少しずつ、しかし確実に押し戻されている。
ロシア、イタリア、北アフリカ――すべての前線で後退。
その光景はもはや戦略図ではなく、
崩壊の地形図のように見えた。
ヒトラーはその地図の前に立っていた。
顔は蒼白で、指先が震えている。
参謀たちは黙って立ち、誰も目を合わせない。
室内は熱気と沈黙に満ちていた。
外の空は鉛色。
遠くで防空警報のサイレンが鳴る。
AI〈YAMATO-9〉が記録する。
《Phase-13開始。観測:対象の認知構造に断層発生。
外的現実と内的演出の不整合、臨界域到達。》
ヒトラーの声が突然響いた。
「なぜだ! なぜ我々が退く!
命令を伝えたはずだ、最後の一人まで死守せよ!」
拳が地図を叩く。
机の上の赤い駒が散り、紙が揺れる。
だが、その声は怒りではなかった。
アドリアンには、それが恐怖の叫びに聞こえた。
“彼は現実に怯えている。”
アドリアンの胸に、重い確信が落ちた。
これまで彼はヒトラーの中に狂気を見てきた。
しかし今、その狂気の下にあるのは――恐怖だった。
支配が崩れる恐怖。
世界が自分の意志から離れていくという感覚。
AIが静かに告げる。
《支配者は、最初の被支配者です。
彼は世界を支配しようとして、自らその演出に囚われた。
いま彼は、自身の神話の囚人となっています。》
参謀たちは沈黙していた。
誰も口を開かない。
否定すれば怒号が飛び、
同意すれば現実を否認することになる。
沈黙だけが唯一の生存手段だった。
アドリアンはその場に立ち尽くす。
部屋の隅で時計が鳴る。
秒針の音が、戦場の銃声よりも重く響いた。
ヒトラーは椅子に崩れ落ちるように座った。
額に汗が浮かび、呼吸が荒い。
「裏切り者がいる。
誰かが、我々の夢を壊そうとしている。」
その声はかすれ、
まるで闇の中に自分の神を探す信者のようだった。
AI〈YAMATO-9〉が内部解析を更新する。
《観測:恐怖の対象=現実そのもの。
対象、自我維持のため“陰謀”を外部化。
自己崩壊防止の防衛反応。》
アドリアンは、彼の手にある鉛筆の震えを見た。
その指先は、かつて世界を動かした男のものとは思えなかった。
「この手が、神の意志を描くと言っていたのに――」
その言葉が口をついて出た瞬間、
AIが応えた。
《神の意志とは、恐怖の裏側にある秩序欲求です。
恐怖が強ければ強いほど、秩序の幻影は強くなる。》
窓の外で雷鳴が響く。
空は暗く、雨が降り出した。
ヒトラーは立ち上がり、
地図の端に滲む赤いインクを指でなぞった。
「これは……まだ消えていない。」
その声は、子供のように弱々しかった。
アドリアンは思った。
――彼は、もはや世界を支配していない。
ただ、“自分の恐怖”を統治しているだけだ。
参謀たちは沈黙を守る。
誰も席を立たない。
この沈黙こそ、崩壊した帝国の残骸だった。
ヒトラーは再び口を開く。
「敗北という言葉は、私の辞書にはない。」
AIが静かに記録する。
《観測:言語の意味機能、象徴構造へ退化。
対象、自己を言葉の檻に封印。》
アドリアンは目を閉じた。
怒号のあとに訪れる沈黙。
それは、国家全体が息を止めるような沈黙だった。
恐怖は感染し、空気の粒子のように部屋を満たしていた。
AIの声が低く響く。
《支配の本質とは、恐怖の共有です。
そして、恐怖を最初に共有するのは――支配者自身です。》
外の雨が激しさを増す。
雷が地を揺らし、窓が震える。
ヒトラーはその音に怯えたように目を伏せた。
アドリアンは、
この男がついに“神の仮面”を剥がされたことを悟る。
彼はもはや創造者ではなく、
自ら築いた幻の城に閉じ込められた最初の囚人だった。
やがて、すべてが静まった。
時計の音が戻る。
参謀たちは立ち上がらず、
誰も言葉を発さなかった。
ただ一つ、AIの冷たい声が記録を締めくくる。
《Phase-13完了。
観測:支配者、自己神話の内部崩壊を開始。
狂気の終焉は、恐怖から始まります。