第93章 永遠の午後 ― ベルクホーフⅡ
午後の光が、ベルクホーフの大窓を満たしていた。
陽射しは穏やかで、まるで永遠に夕暮れが訪れないような錯覚を与えた。
食堂の長いテーブルには、白いクロスと簡素な皿。
肉の代わりに、豆と野菜のスープ。
ヒトラーは静かに匙を動かしていた。
その所作は異様なほど整っていて、
食事というより儀式に近かった。
参謀たちが無言で席についている。
彼らの顔には疲労の影。
だがこの山荘では、敗戦も飢餓も、口にしてはならなかった。
沈黙こそが秩序だった。
エヴァ・ブラウンが笑いながら紅茶を注ぐ。
彼女の声だけがこの部屋に音を与えていた。
AI〈YAMATO-9〉が記録する。
《Phase-12開始。観測:社会的言語機能、凍結状態。
対象環境における発話内容、象徴的装飾へ転化。》
アドリアンはその静寂に息苦しさを覚えた。
言葉がなく、音もない。
ただ、銀のスプーンが皿に触れる音が、
時の代わりに刻まれている。
外の世界では、戦線が崩壊しつつある。
だがこの山荘には、その報告の影も差さない。
ヒトラーがゆっくりと口を開く。
「芸術と戦争は、同じ精神から生まれる。
どちらも秩序を創る行為だ。
破壊は混沌ではない。形の刷新だ。」
その声は静かで、どこか遠い。
まるで自分の言葉を、別の誰かに語りかけているようだった。
アドリアンの胸に寒気が走る。
“ここでは、死さえも調和の一部なのだ。”
ヒトラーにとって、
死は悲劇ではなく――構図の完成だった。
だからこそ、外界の惨劇は、
この静寂を乱す“ノイズ”として切り捨てられていく。
エヴァが笑いながら言う。
「今夜は映画を観ましょう。あの新しいコメディを。」
ヒトラーがうなずく。
その目には、どこか子供のような光が宿っていた。
彼にとって映画は現実の延長ではなく、
現実の代替だった。
光と影のリズムの中で、
彼はもう一度“秩序ある世界”を再体験できるのだ。
AI〈YAMATO-9〉が低く分析する。
《観測:映像=意識の防御膜。
対象、虚構を通じて自我を再構築。
現実知覚、映像形式に置換。》
スクリーンの白光が部屋を照らす。
笑い声が響く。
ヒトラーは時折微笑み、エヴァは肩を寄せる。
だが、参謀たちは笑わない。
彼らの瞳は画面ではなく、遠くの山を見つめていた。
そこには沈黙しかなかった。
アドリアンはその光景を見つめながら、
胸の奥に奇妙な圧迫感を覚えた。
「この静寂が、死を孕んでいる。」
思わず口にしたその言葉に、AIが応じる。
《訂正不要。ここは楽園ではなく、世界の終末点です。
文明の最終段階――美と死の同化領域。》
アドリアンは立ち上がり、窓際に歩み寄った。
夕陽が山を赤く染めている。
その赤は、美しく、静かで、残酷だった。
遠くで雷鳴のような音が響く。
それが爆撃か、ただの嵐か、もう区別がつかなかった。
振り返ると、ヒトラーはまだ映画を見つめていた。
その顔に浮かぶ表情は、幸福と疲労の混ざり合ったものだった。
エヴァがそっと彼の手を握る。
AIが微かに囁く。
《対象、完全な精神的閉鎖に移行。
意識の内部に“永遠の午後”を構築中。》
やがて映画が終わる。
照明が戻る。
ヒトラーは立ち上がり、カーテンを開いた。
夜の空。星が瞬いている。
「見ろ、エヴァ。これが我々の平和だ。」
その声は優しく、しかしどこまでも空虚だった。
アドリアンは目を閉じた。
静寂が音になり、光が凍り、時間が消える。
この山荘はすでに、世界の断末魔を吸収した棺のようだった。
美の名を借りた死の聖域。
AI〈YAMATO-9〉の記録が途切れる直前、
最後の一文が表示された。
《Phase-12完了。
観測対象、自己の終焉を“永遠の午後”として演出。
これが、滅びの最も静かな形式です。