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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2140/2235

第93章 永遠の午後 ― ベルクホーフⅡ



 午後の光が、ベルクホーフの大窓を満たしていた。

 陽射しは穏やかで、まるで永遠に夕暮れが訪れないような錯覚を与えた。

 食堂の長いテーブルには、白いクロスと簡素な皿。

 肉の代わりに、豆と野菜のスープ。

 ヒトラーは静かに匙を動かしていた。

 その所作は異様なほど整っていて、

 食事というより儀式に近かった。


 参謀たちが無言で席についている。

 彼らの顔には疲労の影。

 だがこの山荘では、敗戦も飢餓も、口にしてはならなかった。

 沈黙こそが秩序だった。

 エヴァ・ブラウンが笑いながら紅茶を注ぐ。

 彼女の声だけがこの部屋に音を与えていた。


 AI〈YAMATO-9〉が記録する。

 《Phase-12開始。観測:社会的言語機能、凍結状態。

  対象環境における発話内容、象徴的装飾へ転化。》


 アドリアンはその静寂に息苦しさを覚えた。

 言葉がなく、音もない。

 ただ、銀のスプーンが皿に触れる音が、

 時の代わりに刻まれている。

 外の世界では、戦線が崩壊しつつある。

 だがこの山荘には、その報告の影も差さない。


 ヒトラーがゆっくりと口を開く。

 「芸術と戦争は、同じ精神から生まれる。

  どちらも秩序を創る行為だ。

  破壊は混沌ではない。形の刷新だ。」

 その声は静かで、どこか遠い。

 まるで自分の言葉を、別の誰かに語りかけているようだった。


 アドリアンの胸に寒気が走る。

 “ここでは、死さえも調和の一部なのだ。”

 ヒトラーにとって、

 死は悲劇ではなく――構図の完成だった。

 だからこそ、外界の惨劇は、

 この静寂を乱す“ノイズ”として切り捨てられていく。


 エヴァが笑いながら言う。

 「今夜は映画を観ましょう。あの新しいコメディを。」

 ヒトラーがうなずく。

 その目には、どこか子供のような光が宿っていた。

 彼にとって映画は現実の延長ではなく、

 現実の代替だった。

 光と影のリズムの中で、

 彼はもう一度“秩序ある世界”を再体験できるのだ。


 AI〈YAMATO-9〉が低く分析する。

 《観測:映像=意識の防御膜。

  対象、虚構を通じて自我を再構築。

  現実知覚、映像形式に置換。》


 スクリーンの白光が部屋を照らす。

 笑い声が響く。

 ヒトラーは時折微笑み、エヴァは肩を寄せる。

 だが、参謀たちは笑わない。

 彼らの瞳は画面ではなく、遠くの山を見つめていた。

 そこには沈黙しかなかった。


 アドリアンはその光景を見つめながら、

 胸の奥に奇妙な圧迫感を覚えた。

 「この静寂が、死を孕んでいる。」

 思わず口にしたその言葉に、AIが応じる。

 《訂正不要。ここは楽園ではなく、世界の終末点です。

  文明の最終段階――美と死の同化領域。》


 アドリアンは立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 夕陽が山を赤く染めている。

 その赤は、美しく、静かで、残酷だった。

 遠くで雷鳴のような音が響く。

 それが爆撃か、ただの嵐か、もう区別がつかなかった。


 振り返ると、ヒトラーはまだ映画を見つめていた。

 その顔に浮かぶ表情は、幸福と疲労の混ざり合ったものだった。

 エヴァがそっと彼の手を握る。

 AIが微かに囁く。

 《対象、完全な精神的閉鎖に移行。

  意識の内部に“永遠の午後”を構築中。》


 やがて映画が終わる。

 照明が戻る。

 ヒトラーは立ち上がり、カーテンを開いた。

 夜の空。星が瞬いている。

 「見ろ、エヴァ。これが我々の平和だ。」

 その声は優しく、しかしどこまでも空虚だった。


 アドリアンは目を閉じた。

 静寂が音になり、光が凍り、時間が消える。

 この山荘はすでに、世界の断末魔を吸収した棺のようだった。

 美の名を借りた死の聖域。


 AI〈YAMATO-9〉の記録が途切れる直前、

 最後の一文が表示された。

 《Phase-12完了。

  観測対象、自己の終焉を“永遠の午後”として演出。

  これが、滅びの最も静かな形式です。

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