第91章 ベルリンの朝
1939年8月31日、ベルリン。
総統官邸の朝は異様に静かだった。
曇天の光は硝子に鈍く沈み、室内の輪郭を灰色に縁取る。
アドリアンは肌で感じた――「世界が息を止めている」。
机上には参謀本部から上がった最新の地図。
“Fall Weiss(白作戦)”――ポーランド侵攻計画。
矢印、赤い線、矢印。
だがそれは単なる軍事図ではない。ヒトラーにとっては舞台設計図だった。
兵団は俳優、国境線は照明のライン、爆撃は序曲の太鼓。
午前。官邸の廊下では、国防軍最高司令部(OKW)のカイテル元帥と作戦部長ヨードルが低声で擦れ違う。
陸軍総司令部(OKH)からはブラウヒッチュ、そして日記を欠かさぬ参謀総長ハルダーの書類が届く。
空軍はゲーリングがルフトワッフェ省で作戦を統括、ワルシャワと鉄道結節を初動で麻痺させる――1航空艦隊ケッセルリンク、4航空艦隊レーア。
北方からはボック、南方からはルントシュテットの大矢印が、地図上で静かに進軍していた。
AI〈YAMATO-9〉が記録する。
《Phase-10開始。観測:対象の認知構造、完全演出的世界観。
世界=劇場/行為=儀式/死=演出の完結点。》
外庭で衛兵交代の号令。だがヒトラーは微動だにしない。
花瓶のカーネーションは萎れ、水面に微かな波紋だけが立っている。
時間が凍結していた。
「人間は秩序を求める。私はその秩序を見せてやる。
世界が崩れるなら、それもまた私の作品だ。」
彼の独白に、AIが呟く。
《創造=破壊の同値式。倫理判断、適用不能。》
午後、外交電話が相次ぐ。
8月23日に締結された独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ)と、その秘密議定書――東欧分割の“見えない舞台装置”が既に設置されている。
外務大臣リッベントロップは書記官に通告文の草案を手渡し、官邸地下の通信室は深い唸りを続けた。
夕刻。国境では催眠のような静寂が張られる。
シュタビナ、ヴィエルシュ、そしてヴェステルプラッテ沖の古戦艦シュレスヴィヒ=ホルシュタインが、砲口をわずかにずらして“開幕”を待つ。
夜になると、上シュレージエンのグライヴィッツ無線局が襲撃される。
SSの工作は計画通りに進み、倒れた“証拠”が置かれる。
偶然と虚構の継ぎ目に、戦争のスイッチが差し込まれた。
深更。官邸の執務室。
ヒトラーは立ち上がり、カーテンを一気に開け放つ。
東の空が、まだ夜なのにわずかに赤い――火ではない、予定された光だ。
彼は地図の国境線を指でなぞる。
ゆっくりと、まるで何度も稽古した振付の再演のように。
AIが低く告げる。
《記録:最終命令文言の確定。暗号句“Der Fall Weiss tritt ein”。
実施時刻、04:45。》
午前0時台、最後の逡巡は存在しない。
ヨードルが電文を放ち、各軍集団の作戦幕舎に青白い光が灯る。
ワルシャワの暗闇の上空で、操縦士は時計を合わせ、
ダンツィヒの湾で砲手は距離を読み、
国境の装甲部隊はエンジンを喉奥で転がし始めた。
アドリアンの背筋を冷たいものが走る。
この男にとって“現実”は意志を照らす背景でしかない。
だからこそ国家も民衆も地球でさえ物語の小道具に配置される。
AIが言う。
《彼は世界を“舞台”と見なし、自らを“脚本家”に据えた。
神が沈黙した後、人間が台本を書き始めた。》
午前4時45分。
バルト海沿岸――古戦艦の主砲が火を噴く。ヴェステルプラッテへの第一撃。
南北の戦線が同時に跨ぎ、鉄路が悲鳴を上げ、
天空では爆弾倉の扉が開く。
ベルリンの朝はまだ灰色だが、世界の幕は上がった。
ヒトラーは窓辺から離れ、短く告げる。
「幕を上げよう。」
AI〈YAMATO-9〉が結語を打つ。
《世界の運命が、一人の内面劇に収束。
現実は今、心理劇として上演される。》
その数時間後、総統は帝国議会で言うだろう――
「五時四十五分から我々は撃ち返している」と。
だがアドリアンは知っている。
撃鉄を起こしたのは、**“秩序という名の演出”**だった。
ベルリンの朝。
曇天の彼方で、最初の陽が雲を割る。
その光は舞台のスポットライトのように、
世界という巨大な劇場の幕面を、冷たく照らしていた