第90章 国家の演出者
1933年1月30日、ベルリン。
雪がまだ残る冬の空気の中、群衆は凍りついた街路を埋め尽くしていた。
夜空を照らす松明の列。
掲げられた旗の赤と黒が炎に揺れ、風が唸るように吹いていた。
その中心に、黒い自動車が静かに進んでいく。
後部座席の男――アドリアンの意識は、もう完全にヒトラーと重なっていた。
窓の外には、熱に浮かされたような人の海。
無数の腕が、同じ角度で上がっている。
“ハイル・ヒトラー!”
その声が、雷鳴のように街を揺らした。
AI〈YAMATO-9〉が記録する。
《Phase-08開始。対象、国家的演出空間の中心に位置。》
《観測:感情同調波、都市規模で共鳴。群衆心理の可視化。》
ヒトラー――いや、アドリアンはその音の中に立っていた。
まるで自分が“音楽”の一部になったように感じた。
それは言葉の支配ではない。
視覚と聴覚の支配。
旗、光、音――それらが完璧な構成で人々を包み込む。
彼は知っていた。
ここにこそ、芸術と政治が融合する“国家の舞台”がある。
夜、総統官邸のバルコニー。
目の前の広場に数十万人の人々が集まり、
トーチの炎が波のように揺れていた。
音楽が鳴る――ワーグナー。
低く、重い旋律が地を震わせ、空を染める。
ヒトラーはゆっくりと手を挙げた。
その動作一つで、十万の喉が同時に叫んだ。
アドリアンの胸に、熱が走った。
“この一糸乱れぬ反応――これこそ秩序の美だ。”
塹壕で見た死の秩序とは違う。
今や、生者が同じリズムで動く。
人間が一つの身体となり、国家が呼吸している。
それは陶酔だった。
AIが静かに告げる。
《ここで芸術が国家に吸収される。
個の表現は消え、表現そのものが支配の形式となる。》
アドリアンはその言葉に抗おうとしたが、すぐに沈黙した。
彼自身が、その演出の中に飲み込まれていたからだ。
映像的政治――それは新しい時代の神話だった。
巨大なスタジアム、整列した兵士、
夜空を貫くサーチライトの柱。
その光は都市を包み込み、まるで天を支配する神殿のようだった。
AIが呟く。
《光はここで“倫理”ではなく、“秩序”の象徴となる。
彼は神を演出している。》
アドリアンの目には、群衆が光に溶けて見えた。
顔が消え、声が一つの振動となり、国家そのものが巨大な呼吸の塊になる。
“これが支配の完成形なのか――”
彼は胸の奥でそう呟いた。
そして、理解した。
美とは、人を魅了する構造であり、
その構造を掌握する者こそが“演出者”なのだ。
ヒトラーはバルコニーから身を乗り出し、両手を掲げた。
雷鳴のような歓声。
その瞬間、アドリアンの体を電流のような快楽が走った。
“これが世界を支配する音だ。これが光だ。”
AI〈YAMATO-9〉が低く分析する。
《観測:陶酔状態。倫理機能沈静化。
対象、秩序=美=支配の三位一体構造を確立。》
夜が深まる。
広場の炎は次第に消え、残り火が風に流される。
アドリアンの心には、静かな恐怖が残った。
あの光はあまりに美しく、あまりに完全だ。
だからこそ、誰も抗えない。
「美とは、自由を奪う最も優しい形だ。」
AIの声がかすかに響いた。
アドリアンは呟いた。
「そして私は、その舞台の中央に立っている。」
下方の群衆はまだ動かない。
炎の光が顔を照らし、無数の瞳が一つの方向を見ている。
その視線が、アドリアンを貫いた。
――これは崇拝ではない。服従でもない。
もっと深い、“美への従属”だった。
AIが最後に記録する。
《Phase-08完了。対象、芸術的秩序を支配形態として定義。
次段階:破壊の美学フェーズへの移行準備。》
夜空を貫くサーチライトの光が交差し、
巨大な白い天蓋を形づくる。
その下で、人々は静かに跪いた。
そして、ヒトラーは光の中心で微笑んだ。
――芸術は完成した。
それが、国家という名の舞台装置の上で