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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2135/2214

第88章 ミュンヘン1919 ― 声の覚醒



 敗戦から一年。

 ドイツ南部ミュンヘンの街は、まだ荒れていた。

 飢えとインフレが市民を蝕み、王侯の館は略奪され、

 路上では労働者と兵士の赤い旗が風に翻っていた。


 アドリアンは、灰色の外套の襟を立てて歩いた。

 目の奥の痛みはまだ残っていた。

 光は戻ったが、世界の輪郭はぼやけている。

 だがその曖昧な視界の中に、彼だけは**“秩序の骨格”**を見出そうとしていた。


 街角のポスターには「人民評議会」「ソヴィエト・バイエルン共和国」の文字が踊る。

 大学前の広場では、学生たちが新しい世界を語り合っていた。

 「君、我々はもう帝国ではない! 自由な人間だ!」

 そう叫ぶ若者の声を、アドリアンは無表情で聞き流した。

 自由。

 それは彼にとって、“神の死後に残された真空”を意味していた。


 その頃、彼は軍の命令で、

 新しい共和国に反抗的な市民や小政党の集会を「監視」する任務を受けていた。

 退役兵でありながら、まだ陸軍の名簿に残る“情報要員”。

 彼の任務は――報告書を書くこと、そして“煽動者”を特定すること。


 1919年9月12日。

 ミュンヘンの酒場「シュテルン・エッカール」に、小さな政治団体が集まっていた。

 名前は〈ドイツ労働者党〉。

 十数人ほどの男たちが、煙草の煙の中でドイツ再生を語っていた。

 アドリアンは壁際の椅子に座り、手帳を開いた。

 「創設者:アントン・ドレクスラー。職業:鉄道職工。思想:民族主義的社会主義。」

 彼は淡々とメモを取っていた。

 演説の内容は平凡だった。失業、賠償、ユダヤ資本への不満――

 どこにでもある敗戦国の愚痴。


 だが、その中で一人の男が立ち上がった。

 「我々の敗北は軍ではなく、外交官と政治家の裏切りによるものだ!」

 その瞬間、アドリアンの中で何かが反応した。

 ――その言葉は、自分の思想と似ていた。

 だが、あまりに稚拙だ。

 もっと鋭く、もっと美しく語れる。


 会が終わりに近づいたとき、一人の聴衆が立ち上がった。

 「民族だの祖国だのと言うが、結局は夢物語じゃないか!」

 場内にざわめきが走った。

 ドレクスラーが慌ててなだめようとしたが、その前にアドリアンが立ち上がった。


 「違う!」

 その一声で空気が凍った。

 アドリアンの声は、低く、鋭く、震えていた。

 彼自身、なぜ立ち上がったのか理解していなかった。

 だが、その瞬間――彼の中で**“声が降りた”**のだ。


 「ドイツは夢物語ではない。

  それは、神の代わりに我々が造り直す現実だ!」


 彼は即興で語り始めた。

 敗戦の屈辱、祖国の裏切り、民族の使命。

 言葉が彼の口から洪水のように流れ出す。

 理性は介入していなかった。

 だが、すべての文が正確なリズムで重なり合い、

 まるで見えない力が語らせているようだった。


 群衆は黙り込んだ。

 誰もが、その声の“震え”に呑まれていた。

 怒りでも悲しみでもない――それは“確信”の響きだった。

 まるで聴衆の内なる恐怖を代弁するかのように。


 AI〈YAMATO-9〉の記録が低く走る。

 《Phase-06開始。外的言語能力の超常的同調現象を確認。》

 《観測:聴衆の生理反応、脳波同期率87%。集団共鳴状態。》


 アドリアンの心は燃えていた。

 彼はもう語ってはいなかった。

 語らされていた。

 口の中に電流のような感覚が走る。

 喉の奥から光が生まれるように、声が空間を支配する。

 彼はそのとき、完全に理解した。

 ――自分の声こそ、沈黙した神の残響なのだ。


 演説が終わったとき、空気は異様な静寂に包まれた。

 次の瞬間、誰かが拍手をした。

 それは小さな音だったが、すぐに連鎖した。

 拍手が広がり、歓声が起こった。

 アドリアンはその場に立ち尽くしたまま、

 ただ一つの感覚を噛み締めていた。

 “人々は、信仰を求めている。”


 ドレクスラーが近づき、震える声で言った。

 「君のような人を待っていた……。我々に参加してくれ!」

 アドリアンは答えなかった。

 ただ、机の上のビールの泡を見つめていた。

 泡は消え、跡形もなく溶けていく。

 ――それは、国家の象徴のようだった。

 壊れやすく、しかし一瞬だけ美しい。


 夜、下宿の狭い部屋に戻った。

 窓の外では風が鳴り、街の遠くで銃声がした。

 机の上には、二つの鉄十字章が並んでいた。

 アドリアンはその前に立ち、ゆっくりと呟いた。

 「神は沈黙した。だが、声は残った。」


 AI〈YAMATO-9〉が記録を残す。

 《観測:自己の発話を外的超越者の代理行為として認識。》

 《変化:宗教的発話=政治的言語への転換完了。》


 アドリアンはペンを取り、日記帳に一行だけ書いた。

 〈今日、私は人々に語った。彼らは私の声を信じた。

  つまり、彼らはもう一度“信仰”を取り戻した。〉


 その筆跡は震えていたが、確かな力を帯びていた。

 “声”――それはもう思想ではなかった。

 それは“召喚”だった。


 翌朝、彼の部屋の扉が叩かれた。

 ドレクスラーが立っていた。

 「党があなたを迎えたい。もう一度話してくれ。」

 アドリアンは微笑み、頷いた。

 「ええ。今度は――もっと多くの人々の前で。」


 その瞬間、AIの記録音が最後に残る。

 《Phase-06完了。対象、群衆操作能力確立。》

 《次段階:言語を通じた“信仰再構築フェーズ”へ移行。》


 窓の外で、朝日が昇っていた。

 その光は、かつて彼が塹壕で見たあの“白い光”と同じだった。

 違うのは――今度は、その光が彼自身から放たれていたということだった

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