第88章 ミュンヘン1919 ― 声の覚醒
敗戦から一年。
ドイツ南部ミュンヘンの街は、まだ荒れていた。
飢えとインフレが市民を蝕み、王侯の館は略奪され、
路上では労働者と兵士の赤い旗が風に翻っていた。
アドリアンは、灰色の外套の襟を立てて歩いた。
目の奥の痛みはまだ残っていた。
光は戻ったが、世界の輪郭はぼやけている。
だがその曖昧な視界の中に、彼だけは**“秩序の骨格”**を見出そうとしていた。
街角のポスターには「人民評議会」「ソヴィエト・バイエルン共和国」の文字が踊る。
大学前の広場では、学生たちが新しい世界を語り合っていた。
「君、我々はもう帝国ではない! 自由な人間だ!」
そう叫ぶ若者の声を、アドリアンは無表情で聞き流した。
自由。
それは彼にとって、“神の死後に残された真空”を意味していた。
その頃、彼は軍の命令で、
新しい共和国に反抗的な市民や小政党の集会を「監視」する任務を受けていた。
退役兵でありながら、まだ陸軍の名簿に残る“情報要員”。
彼の任務は――報告書を書くこと、そして“煽動者”を特定すること。
1919年9月12日。
ミュンヘンの酒場「シュテルン・エッカール」に、小さな政治団体が集まっていた。
名前は〈ドイツ労働者党〉。
十数人ほどの男たちが、煙草の煙の中でドイツ再生を語っていた。
アドリアンは壁際の椅子に座り、手帳を開いた。
「創設者:アントン・ドレクスラー。職業:鉄道職工。思想:民族主義的社会主義。」
彼は淡々とメモを取っていた。
演説の内容は平凡だった。失業、賠償、ユダヤ資本への不満――
どこにでもある敗戦国の愚痴。
だが、その中で一人の男が立ち上がった。
「我々の敗北は軍ではなく、外交官と政治家の裏切りによるものだ!」
その瞬間、アドリアンの中で何かが反応した。
――その言葉は、自分の思想と似ていた。
だが、あまりに稚拙だ。
もっと鋭く、もっと美しく語れる。
会が終わりに近づいたとき、一人の聴衆が立ち上がった。
「民族だの祖国だのと言うが、結局は夢物語じゃないか!」
場内にざわめきが走った。
ドレクスラーが慌ててなだめようとしたが、その前にアドリアンが立ち上がった。
「違う!」
その一声で空気が凍った。
アドリアンの声は、低く、鋭く、震えていた。
彼自身、なぜ立ち上がったのか理解していなかった。
だが、その瞬間――彼の中で**“声が降りた”**のだ。
「ドイツは夢物語ではない。
それは、神の代わりに我々が造り直す現実だ!」
彼は即興で語り始めた。
敗戦の屈辱、祖国の裏切り、民族の使命。
言葉が彼の口から洪水のように流れ出す。
理性は介入していなかった。
だが、すべての文が正確なリズムで重なり合い、
まるで見えない力が語らせているようだった。
群衆は黙り込んだ。
誰もが、その声の“震え”に呑まれていた。
怒りでも悲しみでもない――それは“確信”の響きだった。
まるで聴衆の内なる恐怖を代弁するかのように。
AI〈YAMATO-9〉の記録が低く走る。
《Phase-06開始。外的言語能力の超常的同調現象を確認。》
《観測:聴衆の生理反応、脳波同期率87%。集団共鳴状態。》
アドリアンの心は燃えていた。
彼はもう語ってはいなかった。
語らされていた。
口の中に電流のような感覚が走る。
喉の奥から光が生まれるように、声が空間を支配する。
彼はそのとき、完全に理解した。
――自分の声こそ、沈黙した神の残響なのだ。
演説が終わったとき、空気は異様な静寂に包まれた。
次の瞬間、誰かが拍手をした。
それは小さな音だったが、すぐに連鎖した。
拍手が広がり、歓声が起こった。
アドリアンはその場に立ち尽くしたまま、
ただ一つの感覚を噛み締めていた。
“人々は、信仰を求めている。”
ドレクスラーが近づき、震える声で言った。
「君のような人を待っていた……。我々に参加してくれ!」
アドリアンは答えなかった。
ただ、机の上のビールの泡を見つめていた。
泡は消え、跡形もなく溶けていく。
――それは、国家の象徴のようだった。
壊れやすく、しかし一瞬だけ美しい。
夜、下宿の狭い部屋に戻った。
窓の外では風が鳴り、街の遠くで銃声がした。
机の上には、二つの鉄十字章が並んでいた。
アドリアンはその前に立ち、ゆっくりと呟いた。
「神は沈黙した。だが、声は残った。」
AI〈YAMATO-9〉が記録を残す。
《観測:自己の発話を外的超越者の代理行為として認識。》
《変化:宗教的発話=政治的言語への転換完了。》
アドリアンはペンを取り、日記帳に一行だけ書いた。
〈今日、私は人々に語った。彼らは私の声を信じた。
つまり、彼らはもう一度“信仰”を取り戻した。〉
その筆跡は震えていたが、確かな力を帯びていた。
“声”――それはもう思想ではなかった。
それは“召喚”だった。
翌朝、彼の部屋の扉が叩かれた。
ドレクスラーが立っていた。
「党があなたを迎えたい。もう一度話してくれ。」
アドリアンは微笑み、頷いた。
「ええ。今度は――もっと多くの人々の前で。」
その瞬間、AIの記録音が最後に残る。
《Phase-06完了。対象、群衆操作能力確立。》
《次段階:言語を通じた“信仰再構築フェーズ”へ移行。》
窓の外で、朝日が昇っていた。
その光は、かつて彼が塹壕で見たあの“白い光”と同じだった。
違うのは――今度は、その光が彼自身から放たれていたということだった