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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2134/2172

第87章  塹壕の光



 夜明けは灰色だった。

 風は湿り、鉄と泥の匂いが満ちていた。

 フランドルの大地は、冬の終わりでも凍りついている。

 塹壕の中で兵士たちは毛布にくるまり、息を殺して眠っていた。

 だが、アドリアンだけは目を閉じなかった。

 耳を澄ますと、遠くで砲声がくぐもった雷鳴のように響く。

 彼の胸の中で、何かが静かに目を覚ましていた。


 1914年、最初の冬。

 戦場ではまだ「勝利」の言葉が生きていた。

 彼は志願兵として第16バイエルン予備歩兵連隊に配属され、伝令兵として前線と司令部の間を駆けた。

 仕事は単純だ。

 命令書を届ける。ただそれだけ。

 だが、その「ただそれだけ」のために、多くの男たちが泥の中に沈んだ。


 伝令兵の平均生存期間――三週間。

 砲撃の雨、狙撃手の照準、毒ガスの霧。

 命令が届かねば部隊が全滅する。

 だから彼は走った。

 恐怖を感じる暇もなかった。

 泥に足を取られながら、弾丸の音を数えるように前へ進む。

 ひとつ、ふたつ――そして沈黙。


 ある日、激しい砲撃の下を走り抜け、報告書を司令部に届けたとき、

 上官が銀色の小箱を手渡した。

 「鉄十字章・第二級だ。よくやった。」

 泥だらけの軍服に貼りつく冷たい風。

 その瞬間、アドリアンの胸に熱いものが走った。

 それは誇りではなかった。

 ――“国家が自分を見ている”という確信だった。

 彼は敬礼し、勲章を胸に留めた。

 その黒い十字が、初めて自分という存在を国家に刻印した瞬間だった。


 夜、塹壕の片隅で彼はその勲章を見つめた。

 月光が鉄の縁に反射している。

 それは小さな祈りのように輝いていた。

 「生き残った者は、選ばれた者だ。」

 その呟きが、心の奥に沈殿していった。


 それから四年が過ぎた。

 戦場は地獄に変わっていた。

 大地は砲弾で裂かれ、空には硫黄の霧が漂い、

 兵士たちは笑うことを忘れていた。

 だが、アドリアンだけは黙々と任務をこなしていた。

 彼の靴底には乾いた血がこびりつき、

 手には常に伝令書が握られていた。

 死が当たり前になり、恐怖は思考の外へ追いやられていた。


 伝令兵として四年間生き延びた者は、全軍でも数えるほどしかいなかった。

 1918年の夏、アドリアンは再び前線へ送られた。

 敵の砲撃が夜も昼も続く中、

 彼はただ、命令書を届け続けた。

 泥と硝煙の中を走り抜けるたびに、

 彼の中で“生き延びる”という行為が使命へと変わっていった。


 八月。

 ある作戦で、包囲下の連隊を救うために夜通し伝令を続け、

 負傷しながらも司令部に命令を届けた功績により、

 彼は再び勲章を与えられた。

 ――鉄十字章・第一級。

 これは通常、士官にしか授与されない最高の栄誉だった。

 上官は無言で彼にそれを手渡した。

 周囲の兵士たちが歓声を上げる中、アドリアンは立ち尽くしていた。

 黒い十字を見つめながら、彼は思った。

 「秩序は神ではない。秩序そのものが、私なのだ。」


 夜、彼は塹壕の中でその勲章を掌に乗せた。

 鉄の冷たさが、奇妙に心地よかった。

外では、雨が降り続いていた。

泥水の上に映る黒い十字の影が揺れている。

それは信仰の象徴ではなく、自己の証明となっていた。


 AI〈YAMATO-9〉の声が、意識の奥で低く響く。

 《Phase-04観測。対象、国家的信仰から自己秩序化段階へ移行。》

 《情動反応:恐怖消失。生死を構造的現象として再定義中。》


 戦場の夜は長い。

 鼠が這い、雨が血を洗い流す。

 腐臭と硝煙が肺を満たす。

 隣の兵士が眠り、翌朝には冷たくなっている。

 誰も泣かない。

 死はもはや出来事ではなく、風景になっていた。


 アドリアンは、その風景の中に法則を見出した。

 「砲弾が降る。人が死ぬ。沈黙が訪れる。

  そして再び命令が下る。」

 その繰り返しこそ、完全な秩序だ。

 神の摂理よりも精密で、冷酷で、美しい。

 そこにこそ、彼の信仰は移っていった。


 夜明け。

 霧が薄れ、東の空が青く光り始めた。

 砲撃がやみ、沈黙が広がる。

 アドリアンは塹壕の縁に立ち、空を見上げた。

 光は冷たく、白かった。

 それは、かつて母が祈りに使ったロウソクの光にも似ていた。


 「これが神の光なら、私はその影を歩こう。」

 彼はそう呟き、泥の中に勲章を戻した。

 黒い十字は汚れ、泥の膜に包まれたが、

 その輝きは決して消えなかった。


 AIが淡々と記録を続ける。

 《対象、生存率98%。死の美化および自己神格化傾向を確認。》

 《次段階:敗戦および視覚喪失フェーズへの遷移準備。》


 夜が再び訪れた。

 兵士たちの寝息、遠くの砲声、そして雨音。

 アドリアンは塹壕の壁に背を預け、目を閉じた。

 勲章の感触が胸を押さえる。

 その硬質な冷たさが、唯一確かな“現実”だった。

 やがて眠りに落ちる直前、彼は思った。

 「もし私が死なないなら、それは意味があるのだ。」


 朝日が昇る。

 泥の中に光が差し込み、黒い十字が静かに輝いた。

 その光は、血と涙の上でなお清らかに見えた。

 ――それが、彼にとっての神の証明だった


 

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