第86章 戦争の召喚
光が砕け、音が生まれた。
アドリアンの鼓膜を打つのは、鐘の音ではなかった。
それは鉄と炎の混じった、巨大な鼓動。
1914年8月。ヨーロッパ全土が、戦争という幻聴を聞いていた。
彼――アドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンの街頭に立っていた。
旗が翻り、人々の叫びが空を震わせる。
「ドイツ万歳! 祖国のために!」
見知らぬ人々が肩を抱き合い、涙を流している。
アドリアンはその中で、自分の胸の奥が燃え上がるのを感じた。
それは怒りでも悲しみでもない。
もっと原初的な――**「帰属」**という名の陶酔だった。
AI〈YAMATO-9〉が記録を解析する。
《神経パターン:同調性急上昇。対象、個の境界を喪失し群体化へ移行。》
アドルフは、国籍がオーストリアであるにもかかわらず、ドイツ陸軍への志願を申し出た。
「私はドイツ民族の一員です。戦わせてください。」
面接官が驚きの目で書類を見る。
彼の声には、微塵の迷いもなかった。
翌週、彼は第16バイエルン予備歩兵連隊――通称リスト連隊に配属された。
訓練所の風景が広がる。
兵士たちの叫び、銃の匂い、泥と油と血の混じった空気。
アドリアンの心は高揚していた。
秩序が音になり、国家が呼吸する瞬間を、全身で感じ取っていた。
《観測:対象、自己を“秩序の中の一機能”として定位。生の主体性が抹消されつつある。》
そして、最初の出陣。
列車がベルギー方面へ向かう。
窓外に広がる草原、見送る群衆。
誰もが“選ばれた時代”を生きていると信じていた。
アドリアンもそう思った。
「ようやく、この世界に意味が与えられた。」
夜、塹壕の中。
冷たい雨が降り、泥が靴の中にまで染み込む。
通信兵としての任務――伝令。
砲撃の中を走り、伝令文を届け、また走る。
雷鳴のような砲声が頭上を通り抜け、光が地平を裂く。
その瞬間、アドリアンは奇妙な安堵を覚えた。
「死が、秩序を完成させる。」
AIが解析を続ける。
《対象、死を“混乱の終止符”として認識。恐怖反応消失。》
《この時点で、信仰構造が成立。対象は国家=神としての観念を内面化。》
周囲の兵士たちが次々と倒れる。
泥に埋もれ、顔を失い、声を失う。
アドリアンは膝をつき、地面を見つめた。
地面の下にも、同じように沈黙する死者たちが眠っている。
「彼らは帰ったんだ。」
そう思った。
“神の秩序”へと帰還したのだと。
《観測:死生観の反転。対象、生命=混沌/死=秩序と定義。》
夜明け。
塹壕の隙間から、朝の光が差し込む。
それは優しく、どこか母の手のようだった。
アドリアンは無意識に空を見上げ、クララの面影を探す。
しかし、そこに見えるのは鉄の鳥、燃える雲、爆煙だけだった。
彼はつぶやいた。
「神はもう地上にいない。ならば、人が神の代わりになる。」
AIが小さく反応する。
《初期的“救世主複合”形成。対象、世界秩序の回復者としての自己イメージを生成。》
その夜、砲撃の光が再び空を染める。
死体の上を越えて、アドリアンは走った。
伝令文を握る手の中で、紙が血に濡れて崩れた。
息が詰まり、視界が白く染まる。
そして――一瞬の静寂。
耳鳴りの中で、アドリアンは自分の声を聞いた。
「この静けさこそ、永遠だ。」
AI〈YAMATO-9〉の声がかすかに震える。
《Phase-04完了。次段階“塹壕の光”へ移行。警告:被験者との感情同調率が危険値に達しています。》
白い光が弾けた。
その光は、死ではなく、信仰のように眩しかった