第85章 乞う者たちの街
冬が終わらなかった。
春になっても風は冷たく、ウィーンの路地には腐った果物と凍りかけた雪が混じっていた。
アドリアンは、古着屋の裏通りを歩いていた。
手にはスケッチ帳、しかし中の紙はほとんど使い尽くされ、残りの白は一枚きりだった。
宿はない。
パンは一日前に尽きた。
ポケットの中には、硬貨が三つ。
それを指で転がしながら、アドリアンは思う。
――ここでは、生きることに理由が必要なのか?
AI〈YAMATO-9〉の声が、凍える脳の奥で微かに響く。
《Phase-03.5開始。対象、社会的隔絶の極点。》
《観測:自我維持のため、抽象化された“敵”を必要としています。》
ウィーン中央駅近くの橋の下には、失業者と浮浪者たちが焚き火を囲んでいた。
アドリアンもその輪に加わる。
ひげを生やした男たちがパンを分け合い、ぼろ布を引きずって笑っている。
誰かが呟いた。「明日も今日と同じなら、それでいい。」
その言葉が、彼の中で凍りついた。
“それでいい”――その諦めが、この街を支配している。
翌朝、炊き出し場の列に並ぶ。
前に立っていたのはユダヤ系の慈善団体の男たちだった。
彼らの笑みは温かかった。
だがアドリアンには、その笑みが奇妙に偽りに見えた。
「なぜ彼らだけが与える側にいられる?」
AIが記録する。
《敵意、再発。対象は“助ける者”への嫉妬と憎悪を同時に認識。》
配給されたスープを啜りながら、彼は視線を伏せた。
周囲には同じような顔、同じような手、同じような沈黙。
人々は生きるというより、生き残ることを反復していた。
“生”が“制度”に変わるとき、人間はどんな形を取るのか――
アドリアンは、それを自分の体で理解し始めていた。
日が暮れると、彼は橋の下に戻った。
スケッチ帳を開き、鉛筆で街を描く。
煤けた屋根、歪んだ街灯、乞う者たちの影。
だがその描線には、もはや慈悲はなかった。
線は鋭く、建物は斜めに歪み、光は存在しなかった。
「美とは、悲惨の中で秩序を取り戻すこと。」
その言葉が、どこからともなく浮かんだ。
ある夜、教会の前で身を寄せ合う乞食たちの群れを見た。
司祭がパンを配る。
列の中で、誰かが押し合い、転び、罵声が飛ぶ。
その瞬間、アドリアンの中で何かが切れた。
「人間は皆、混沌だ。だから神が必要なのだ。」
彼の瞳は、炎を映していた。
AIが記録を重ねる。
《対象、道徳的二元論を形成。“純粋/堕落”の二分構造出現。》
夜明け前、街路の端でアドリアンは一人立ち尽くした。
風に乗って新聞の切れ端が足元に転がる。
「サラエヴォで皇太子夫妻暗殺」――その見出しが、月明かりに揺れた。
世界が、ついに燃え始めていた。
アドリアンは空を見上げる。
長く閉ざされた雲の隙間から、ほんのわずかに光がこぼれる。
その光は寒く、だが確かに存在した。
「この混沌を終わらせる秩序が、どこかにある。」
その言葉は祈りのようで、宣告のようでもあった。
AI〈YAMATO-9〉の声が静かに結ぶ。
《Phase-03.5終了。次段階“戦争の召喚”へ移行。》
《注:ここでの“救済への渇望”が、以後の全行動の原動力となる。》
風が止んだ。
街は眠り、灯火は消えた。
ただ、遠くで鐘が一度だけ鳴った。
それは、戦争の序章を告げる音のようだった。