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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2132/2187

第85章  乞う者たちの街



 冬が終わらなかった。

 春になっても風は冷たく、ウィーンの路地には腐った果物と凍りかけた雪が混じっていた。

 アドリアンは、古着屋の裏通りを歩いていた。

 手にはスケッチ帳、しかし中の紙はほとんど使い尽くされ、残りの白は一枚きりだった。


 宿はない。

 パンは一日前に尽きた。

 ポケットの中には、硬貨が三つ。

 それを指で転がしながら、アドリアンは思う。

 ――ここでは、生きることに理由が必要なのか?


 AI〈YAMATO-9〉の声が、凍える脳の奥で微かに響く。

 《Phase-03.5開始。対象、社会的隔絶の極点。》

 《観測:自我維持のため、抽象化された“敵”を必要としています。》


 ウィーン中央駅近くの橋の下には、失業者と浮浪者たちが焚き火を囲んでいた。

 アドリアンもその輪に加わる。

 ひげを生やした男たちがパンを分け合い、ぼろ布を引きずって笑っている。

 誰かが呟いた。「明日も今日と同じなら、それでいい。」

 その言葉が、彼の中で凍りついた。

 “それでいい”――その諦めが、この街を支配している。


 翌朝、炊き出し場の列に並ぶ。

 前に立っていたのはユダヤ系の慈善団体の男たちだった。

 彼らの笑みは温かかった。

 だがアドリアンには、その笑みが奇妙に偽りに見えた。

 「なぜ彼らだけが与える側にいられる?」

 AIが記録する。

 《敵意、再発。対象は“助ける者”への嫉妬と憎悪を同時に認識。》


 配給されたスープを啜りながら、彼は視線を伏せた。

 周囲には同じような顔、同じような手、同じような沈黙。

 人々は生きるというより、生き残ることを反復していた。

 “生”が“制度”に変わるとき、人間はどんな形を取るのか――

 アドリアンは、それを自分の体で理解し始めていた。


 日が暮れると、彼は橋の下に戻った。

 スケッチ帳を開き、鉛筆で街を描く。

 煤けた屋根、歪んだ街灯、乞う者たちの影。

 だがその描線には、もはや慈悲はなかった。

 線は鋭く、建物は斜めに歪み、光は存在しなかった。

 「美とは、悲惨の中で秩序を取り戻すこと。」

 その言葉が、どこからともなく浮かんだ。


 ある夜、教会の前で身を寄せ合う乞食たちの群れを見た。

 司祭がパンを配る。

 列の中で、誰かが押し合い、転び、罵声が飛ぶ。

 その瞬間、アドリアンの中で何かが切れた。

 「人間は皆、混沌だ。だから神が必要なのだ。」

 彼の瞳は、炎を映していた。

 AIが記録を重ねる。

 《対象、道徳的二元論を形成。“純粋/堕落”の二分構造出現。》


 夜明け前、街路の端でアドリアンは一人立ち尽くした。

 風に乗って新聞の切れ端が足元に転がる。

 「サラエヴォで皇太子夫妻暗殺」――その見出しが、月明かりに揺れた。

 世界が、ついに燃え始めていた。


 アドリアンは空を見上げる。

 長く閉ざされた雲の隙間から、ほんのわずかに光がこぼれる。

 その光は寒く、だが確かに存在した。

 「この混沌を終わらせる秩序が、どこかにある。」

 その言葉は祈りのようで、宣告のようでもあった。


 AI〈YAMATO-9〉の声が静かに結ぶ。

 《Phase-03.5終了。次段階“戦争の召喚”へ移行。》

 《注:ここでの“救済への渇望”が、以後の全行動の原動力となる。》


 風が止んだ。

 街は眠り、灯火は消えた。

 ただ、遠くで鐘が一度だけ鳴った。

 それは、戦争の序章を告げる音のようだった。

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