表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2131/2172

第84章 ウィーンの冬 ― 美術の門前



 冷たい風が、建物の谷間を這うように吹き抜けた。

 アドリアンの足元に、凍った雪が砕ける音が響く。

 視界の中には、白亜の建物群。重厚な柱、金色のドーム、馬車が通り過ぎる。

 ここはウィーン。1907年、帝国の心臓。

 音楽と美術の都、そして無数の敗者が沈む場所だった。


 彼はその中にいた。

 片手にスケッチ帳、もう片方でコートを握りしめる。

 手が震えているのは寒さのせいだけではない。

 ウィーン美術アカデミーの掲示板――。

 そこに張り出された紙には、冷たい筆跡で一行。


 「不合格」。


 アドリアンの視界が揺れる。

 “ヒトラー”の胸が潰れるように沈むのを、彼自身の呼吸が追い越していく。

 周囲の声は、雪のように無音だった。

 白い粉が空気を満たし、都市の音が遠のく。


 《観測:第一次挫折反応。外的要因=評価拒絶。》

 AI〈YAMATO-9〉の分析が静かに響く。

 《対象は外界の否定を、内面の完全化で代替しようとしています。》


 アドリアンは立ち尽くしていた。

 誰も彼を見ない。

 誰も気づかない。

 芸術に選ばれなかった者は、ただの埃と同じ――

 この瞬間、彼の中で世界が一度死んだ。


 夜、彼は下宿の小さな部屋に戻り、

 石炭の尽きたストーブの前でスケッチを広げた。

 描かれているのは、建物ばかり。

 教会、郵便庁、裁判所、国会議事堂。

 どれも正確で、直線が美しかった。

 窓、屋根、塔――すべて幾何学的に整列している。


 だが、人間を描こうとすると、線が震えた。

 顔が崩れ、目が空白になった。

 筆が止まり、紙が破れる。

 アドリアンは息を吐いた。

 「彼は、人間を信じていない……」


 AIが応じる。

 《彼にとって“美”とは秩序です。

  人間は秩序を乱す存在。だから線が止まる。》


 翌朝、再びアカデミーの前に列ができた。

 二度目の試験。

 大理石の廊下、天井の装飾、響く靴音。

 受験生たちは各自の作品を抱え、順番を待っていた。

 ヒトラーの手には、十数枚のスケッチ。

 どれも建築的で、陰影まで計算されている。

 審査官は一枚目を無言でめくり、眉を寄せた。


 「構図は悪くない。だが――人がいない。」

 「そうだ、街に生命が感じられん。」

 もう一人の審査官が言う。

 「建築科なら受け入れられたかもしれんが、美術ではない。」


 ヒトラーの喉が乾いた。

 彼は何か言おうとしたが、声にならない。

 その沈黙の中で、

 人間という存在そのものが、彼の中で審査員と同じ側に立った。


 アドリアンは息を詰める。

 《観測:第二次拒絶反応。

  対象の“美”概念が道徳化。

  人間=腐敗、秩序=純粋、という二項構造が固定化。》


 外へ出ると、午後の陽が雪を赤く染めていた。

 路上では、ユダヤ人の古着商が声を上げていた。

 「古いコートを買い取りますよ!」

 陽気で、どこか執拗な声。

 ヒトラーの胸に、理由のない苛立ちが芽生える。

 ――なぜ彼らは生きることに、こんなにも長けているのか?


 AIが小さく反応する。

 《敵意発生。対象、自己の挫折を“外的構造”に投影。》

 それはまだ憎悪ではなかった。

 ただの説明、自己保存の理性。

 だがその理性こそが、のちに世界を燃やす“冷たい神話”の原型だった。


 夜、アドリアンはカフェ・ツェントラルに入った。

 照明は暗く、テーブルの上の煙草の煙が光を曇らせている。

 新聞を読む者、チェスを指す者、詩を朗読する者。

 知識と思想が溢れるこの空間で、彼は孤独だった。

 紙ナプキンの裏に描かれたのは、またしても建物。

 完璧な透視図。

 だが、そこに“人間”を描くことはできなかった。


 アドリアンは問う。

 「なぜ彼は建物を愛し、人を描けなかった?」

 AI〈YAMATO-9〉が答える。

 《建物は彼にとって“救済の形”です。

  人間は、永遠に崩れる素材。

  だから彼は、神ではなく建築家になろうとした。》


 美術館に行ったのは、その数日後だった。

 ルーベンスの絵の前で、彼は立ち尽くした。

 豊かな肌、揺れる光、混沌の中にある生命の力。

 だが、彼の中の声が囁く。

 「これは混沌だ。形がない。理想ではない。」


 アドリアンの胸が痛んだ。

 《対象は“生”より“形”を信じる。

  形が崩れるとき、秩序が死ぬと感じている。》

 「でも……秩序だけでは生きられない。」

 《そう。だが彼は、生きるより“支配する”ほうを選んだ。》


 夕暮れ、アドリアンはドナウ河岸に座った。

 街灯が川面に揺れ、風が血のように冷たい。

 空は暗紫に沈み、雪の粒が舞い始める。

 膝の上のスケッチには、崩れかけた教会が描かれていた。

 塔は完璧に直立していたが、

 その周囲に人影は一つもなかった。


 「――美とは、完全に静止した秩序。」

 その言葉が、まるでヒトラー自身の呟きのようにアドリアンの脳に刻まれる。

 AIが告げる。

 《この段階で“静止=美”という観念が定着。

  以後、生命的要素は“敵”として分類されます。》


 アドリアンはつぶやいた。

 「ならば……生きる者すべてが、彼にとって“形を乱す者”になる。」

 《その通りです。そして彼はやがて、“秩序の芸術家”になる。》


 ウィーンの冬の空は、静かに凍りついていった。

 光のない雪が落ち、街の音が遠ざかる。

 アドリアンは寒さではなく――世界の沈黙を感じていた。


 《Phase-03終了。次段階:戦争、1914年へ移行。》


 AIの声が消えると同時に、光が弾けた。

 次の瞬間、アドリアンの頬を切り裂くような轟音――

 それは、世界が“秩序を取り戻そうとする”音だった。

 すなわち、戦争の始まりだった

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ