第84章 ウィーンの冬 ― 美術の門前
冷たい風が、建物の谷間を這うように吹き抜けた。
アドリアンの足元に、凍った雪が砕ける音が響く。
視界の中には、白亜の建物群。重厚な柱、金色のドーム、馬車が通り過ぎる。
ここはウィーン。1907年、帝国の心臓。
音楽と美術の都、そして無数の敗者が沈む場所だった。
彼はその中にいた。
片手にスケッチ帳、もう片方でコートを握りしめる。
手が震えているのは寒さのせいだけではない。
ウィーン美術アカデミーの掲示板――。
そこに張り出された紙には、冷たい筆跡で一行。
「不合格」。
アドリアンの視界が揺れる。
“ヒトラー”の胸が潰れるように沈むのを、彼自身の呼吸が追い越していく。
周囲の声は、雪のように無音だった。
白い粉が空気を満たし、都市の音が遠のく。
《観測:第一次挫折反応。外的要因=評価拒絶。》
AI〈YAMATO-9〉の分析が静かに響く。
《対象は外界の否定を、内面の完全化で代替しようとしています。》
アドリアンは立ち尽くしていた。
誰も彼を見ない。
誰も気づかない。
芸術に選ばれなかった者は、ただの埃と同じ――
この瞬間、彼の中で世界が一度死んだ。
夜、彼は下宿の小さな部屋に戻り、
石炭の尽きたストーブの前でスケッチを広げた。
描かれているのは、建物ばかり。
教会、郵便庁、裁判所、国会議事堂。
どれも正確で、直線が美しかった。
窓、屋根、塔――すべて幾何学的に整列している。
だが、人間を描こうとすると、線が震えた。
顔が崩れ、目が空白になった。
筆が止まり、紙が破れる。
アドリアンは息を吐いた。
「彼は、人間を信じていない……」
AIが応じる。
《彼にとって“美”とは秩序です。
人間は秩序を乱す存在。だから線が止まる。》
翌朝、再びアカデミーの前に列ができた。
二度目の試験。
大理石の廊下、天井の装飾、響く靴音。
受験生たちは各自の作品を抱え、順番を待っていた。
ヒトラーの手には、十数枚のスケッチ。
どれも建築的で、陰影まで計算されている。
審査官は一枚目を無言でめくり、眉を寄せた。
「構図は悪くない。だが――人がいない。」
「そうだ、街に生命が感じられん。」
もう一人の審査官が言う。
「建築科なら受け入れられたかもしれんが、美術ではない。」
ヒトラーの喉が乾いた。
彼は何か言おうとしたが、声にならない。
その沈黙の中で、
人間という存在そのものが、彼の中で審査員と同じ側に立った。
アドリアンは息を詰める。
《観測:第二次拒絶反応。
対象の“美”概念が道徳化。
人間=腐敗、秩序=純粋、という二項構造が固定化。》
外へ出ると、午後の陽が雪を赤く染めていた。
路上では、ユダヤ人の古着商が声を上げていた。
「古いコートを買い取りますよ!」
陽気で、どこか執拗な声。
ヒトラーの胸に、理由のない苛立ちが芽生える。
――なぜ彼らは生きることに、こんなにも長けているのか?
AIが小さく反応する。
《敵意発生。対象、自己の挫折を“外的構造”に投影。》
それはまだ憎悪ではなかった。
ただの説明、自己保存の理性。
だがその理性こそが、のちに世界を燃やす“冷たい神話”の原型だった。
夜、アドリアンはカフェ・ツェントラルに入った。
照明は暗く、テーブルの上の煙草の煙が光を曇らせている。
新聞を読む者、チェスを指す者、詩を朗読する者。
知識と思想が溢れるこの空間で、彼は孤独だった。
紙ナプキンの裏に描かれたのは、またしても建物。
完璧な透視図。
だが、そこに“人間”を描くことはできなかった。
アドリアンは問う。
「なぜ彼は建物を愛し、人を描けなかった?」
AI〈YAMATO-9〉が答える。
《建物は彼にとって“救済の形”です。
人間は、永遠に崩れる素材。
だから彼は、神ではなく建築家になろうとした。》
美術館に行ったのは、その数日後だった。
ルーベンスの絵の前で、彼は立ち尽くした。
豊かな肌、揺れる光、混沌の中にある生命の力。
だが、彼の中の声が囁く。
「これは混沌だ。形がない。理想ではない。」
アドリアンの胸が痛んだ。
《対象は“生”より“形”を信じる。
形が崩れるとき、秩序が死ぬと感じている。》
「でも……秩序だけでは生きられない。」
《そう。だが彼は、生きるより“支配する”ほうを選んだ。》
夕暮れ、アドリアンはドナウ河岸に座った。
街灯が川面に揺れ、風が血のように冷たい。
空は暗紫に沈み、雪の粒が舞い始める。
膝の上のスケッチには、崩れかけた教会が描かれていた。
塔は完璧に直立していたが、
その周囲に人影は一つもなかった。
「――美とは、完全に静止した秩序。」
その言葉が、まるでヒトラー自身の呟きのようにアドリアンの脳に刻まれる。
AIが告げる。
《この段階で“静止=美”という観念が定着。
以後、生命的要素は“敵”として分類されます。》
アドリアンはつぶやいた。
「ならば……生きる者すべてが、彼にとって“形を乱す者”になる。」
《その通りです。そして彼はやがて、“秩序の芸術家”になる。》
ウィーンの冬の空は、静かに凍りついていった。
光のない雪が落ち、街の音が遠ざかる。
アドリアンは寒さではなく――世界の沈黙を感じていた。
《Phase-03終了。次段階:戦争、1914年へ移行。》
AIの声が消えると同時に、光が弾けた。
次の瞬間、アドリアンの頬を切り裂くような轟音――
それは、世界が“秩序を取り戻そうとする”音だった。
すなわち、戦争の始まりだった