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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2130/2172

第83章 リンツの少年



 霧の朝。

 アドリアンが目を開けると、目の前に青灰色の街並みが広がっていた。

 石造りの家々、舗装されていない坂道、郵便馬車の音。

 彼はすぐに理解した――ここはリンツ。

 アドルフ・ヒトラーが十代を過ごした街だった。


 丘の上に古い聖堂があり、鐘が朝を告げている。

 その音は穏やかで、それでいてどこか不安を誘った。

 アドリアンは制服の襟を正し、手にスケッチ帳を抱えて歩き出す。

 身体の感覚は完全に“彼”のものだった。

 靴底の硬さ、手の震え、胸の奥に溜まる言葉にならない焦燥。


 《Phase-02開始。対象:青年期。情動状態――緊張。》

 AI〈YAMATO-9〉の声が頭の奥に淡く響く。

 《観測領域:創造と秩序の葛藤。》


 学校。

 古びた机に、生徒たちが鉛筆を走らせている。

 教師の声は冷たく、方程式を読み上げるたびに、教室の空気が固まっていく。

 「芸術? そんなものは何の役にも立たん!」

 教師の嘲笑が、少年の中に深く刺さった。

 アドリアンは、自分の手がゆっくりと拳を握るのを感じた。

 痛みと同時に、快感にも似た熱が生まれる。

 ――世界を黙らせたい。


 放課後、彼は川沿いを歩いた。

 リュックの中には鉛筆とスケッチ帳。

 家には帰りたくなかった。

 父アロイスの怒声が響く家の空気は、鉄でできた牢のようだった。


 丘の中腹に座り、彼は静かに絵を描いた。

 修道院、屋根の影、遠くに見える山並み。

 しかし、描けば描くほど、線が硬く、無機的になっていく。

 建物は完璧なのに、人の姿は消えていった。

 アドリアンは息を呑む。

 この絵の中にはすでに、“人間のいない世界の秩序”があった。


 夜、帰宅したアドルフの前で、アロイスが新聞を叩きつける。

 「また成績が落ちたのか。絵など、役に立たん!」

 少年は何も言わず、視線を床に落とす。

 その沈黙が、反抗よりも深い拒絶だった。

 クララがそっと間に入るが、父の怒りは収まらない。

 「男は服従を学ばねばならん!」


 アドリアンはその言葉を、痛みではなく“論理”として受け取った。

 服従することで、世界が安定する。

 だが同時に、服従を“支配”の形に変えることができる――そんな思考が芽生えた。

 《観測:支配の模倣段階へ移行。対象は秩序を内面化しつつ、それを超える“自己秩序”を形成し始めています。》


 次の場面。

 小さな部屋、窓際の机。

 クララがそっと少年の手を握る。

 「あなたは優しい子よ。絵を描くときの目が、まるで光を見ているよう。」

 アドリアンの喉が詰まる。

 その光こそ、彼が唯一信じられる世界の残響だった。


 だが、その数週間後――母の病床。

 クララの胸は浅く上下し、薬草の匂いが部屋を満たしている。

 医師の表情は沈黙そのものだった。

 アドリアンの視界が歪む。

 「ママ……僕が代わりに祈るよ。」

 声は震え、涙は出ない。

 代わりに、胸の奥に“冷たい光”が灯った。


 《観測:愛情の終焉点における神経収縮。情動冷却反応、確認。》

 AIの声が遠のく。

 アドリアンはその光の正体を理解していた。

 ――これは悲しみではない。使命のような感覚だ。

 母が消えた瞬間、少年は“無限の秩序”に包まれた。

 その秩序には、涙も、赦しもなかった。


 夜、アドリアンの体がふっと浮く。

 夢の中で、遠くの都市の光が滲んでいく。

 ウィーン――その名が頭の奥で小さく響いた。


 《Phase-02終了。次段階:ウィーン、1907年へ遷移。》

 アドリアンの意識は、光の中へ沈んでいった

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