第83章 リンツの少年
霧の朝。
アドリアンが目を開けると、目の前に青灰色の街並みが広がっていた。
石造りの家々、舗装されていない坂道、郵便馬車の音。
彼はすぐに理解した――ここはリンツ。
アドルフ・ヒトラーが十代を過ごした街だった。
丘の上に古い聖堂があり、鐘が朝を告げている。
その音は穏やかで、それでいてどこか不安を誘った。
アドリアンは制服の襟を正し、手にスケッチ帳を抱えて歩き出す。
身体の感覚は完全に“彼”のものだった。
靴底の硬さ、手の震え、胸の奥に溜まる言葉にならない焦燥。
《Phase-02開始。対象:青年期。情動状態――緊張。》
AI〈YAMATO-9〉の声が頭の奥に淡く響く。
《観測領域:創造と秩序の葛藤。》
学校。
古びた机に、生徒たちが鉛筆を走らせている。
教師の声は冷たく、方程式を読み上げるたびに、教室の空気が固まっていく。
「芸術? そんなものは何の役にも立たん!」
教師の嘲笑が、少年の中に深く刺さった。
アドリアンは、自分の手がゆっくりと拳を握るのを感じた。
痛みと同時に、快感にも似た熱が生まれる。
――世界を黙らせたい。
放課後、彼は川沿いを歩いた。
リュックの中には鉛筆とスケッチ帳。
家には帰りたくなかった。
父アロイスの怒声が響く家の空気は、鉄でできた牢のようだった。
丘の中腹に座り、彼は静かに絵を描いた。
修道院、屋根の影、遠くに見える山並み。
しかし、描けば描くほど、線が硬く、無機的になっていく。
建物は完璧なのに、人の姿は消えていった。
アドリアンは息を呑む。
この絵の中にはすでに、“人間のいない世界の秩序”があった。
夜、帰宅したアドルフの前で、アロイスが新聞を叩きつける。
「また成績が落ちたのか。絵など、役に立たん!」
少年は何も言わず、視線を床に落とす。
その沈黙が、反抗よりも深い拒絶だった。
クララがそっと間に入るが、父の怒りは収まらない。
「男は服従を学ばねばならん!」
アドリアンはその言葉を、痛みではなく“論理”として受け取った。
服従することで、世界が安定する。
だが同時に、服従を“支配”の形に変えることができる――そんな思考が芽生えた。
《観測:支配の模倣段階へ移行。対象は秩序を内面化しつつ、それを超える“自己秩序”を形成し始めています。》
次の場面。
小さな部屋、窓際の机。
クララがそっと少年の手を握る。
「あなたは優しい子よ。絵を描くときの目が、まるで光を見ているよう。」
アドリアンの喉が詰まる。
その光こそ、彼が唯一信じられる世界の残響だった。
だが、その数週間後――母の病床。
クララの胸は浅く上下し、薬草の匂いが部屋を満たしている。
医師の表情は沈黙そのものだった。
アドリアンの視界が歪む。
「ママ……僕が代わりに祈るよ。」
声は震え、涙は出ない。
代わりに、胸の奥に“冷たい光”が灯った。
《観測:愛情の終焉点における神経収縮。情動冷却反応、確認。》
AIの声が遠のく。
アドリアンはその光の正体を理解していた。
――これは悲しみではない。使命のような感覚だ。
母が消えた瞬間、少年は“無限の秩序”に包まれた。
その秩序には、涙も、赦しもなかった。
夜、アドリアンの体がふっと浮く。
夢の中で、遠くの都市の光が滲んでいく。
ウィーン――その名が頭の奥で小さく響いた。
《Phase-02終了。次段階:ウィーン、1907年へ遷移。》
アドリアンの意識は、光の中へ沈んでいった