第82章 ブラウナウの光
雪が光を吸い込むように、静かに降っていた。
アドリアンの視界は、もう東京ではなかった。
そこは1890年代、オーストリア=ハンガリー帝国の小都市ブラウナウ・アム・イン。
薄い朝霧の向こうに、イン川がゆっくりと流れている。
空気は透き通り、遠くで教会の鐘が鳴った。
彼は小さな手を見た。
その手は泥だらけで、指先に霜焼けができている。
自分の声ではない、幼い少年の声が聞こえる。
「……ママ?」
その響きは、温かく、痛いほどに近かった。
母クララの姿が現れた。
白いスカーフを巻き、ストーブの火を整えながら振り返る。
彼女の手の動きには、宗教的な優しさが宿っていた。
「アドルフ、パンが焼けたわ。」
声を聞いた瞬間、アドリアンの胸の奥で何かが溶けた。
AI〈YAMATO-9〉の声が遠くで囁く。
《感情波動、上昇中。あなたは今、“母の愛”の内側にいます。》
アドリアンは頷こうとしたが、その行為自体がアドルフの動きと重なっていた。
パンをちぎり、バターを塗る。
木のテーブル、古びたランプ、壁の十字架。
すべてが、彼の“世界のすべて”だった。
だが、戸口の向こうから革靴の硬い音が響いた。
「アドルフ!」
父アロイスの低い怒声が空気を裂く。
少年――いや、アドリアンの体が反射的に震える。
恐怖ではない。
それは、“秩序への即時服従”だった。
アロイス・ヒトラー。
その背中には、帝国官吏としての職務の重さが染み付いていた。
軍帽の縁には雪がこびりつき、胸には銀の紋章。
しかしその目は、国家の権威よりも古い、**“支配者の生理”**そのものだった。
「この家では規律が法だ。感情など贅沢にすぎん。」
彼の声は、まるで官報のように冷たく整っていた。
家の中に彼が入ると、空気の密度が変わる。
クララはそっと目を伏せ、息を殺す。
アドルフは机の端に置かれた帳簿を見た。
そこには赤いインクでびっしりと書かれた数字。
税、関税、輸入品、国境――その全てが**「線を引くこと」**で成り立っていた。
その線の向こうに、人が住んでいる。
線のこちらに、秩序がある。
父はその線を守る人間だった。
少年の心に焼きついたのは、“権威への恐怖”ではなく、“線を支配する快感”だった。
《観測:恐怖反応ではなく、同化反応。対象は父の支配を“世界の法”として内面化しています。》
夜、クララはろうそくの明かりで聖母像に祈っていた。
アドルフ――アドリアンはその横顔を見つめながら、奇妙な確信を得る。
「母のように人を包む存在」
「父のように人を従わせる存在」
――その両方を一人の人間が兼ねることはできるのだろうか?
視界の端で、少年が描いた絵が見える。
小さな鉛筆で、古城と太陽を描いている。
そこには、静かな支配の美学があった。
陽の光は柔らかく、だが世界のすべてを支配していた。
クララが微笑む。
「綺麗ね、アドルフ。」
その声に包まれながら、アドリアンはふと理解した。
――この“優しさ”こそが、後の“狂気”の始まりだったのだ。
世界はいつも、最初は光の形をしている。
そして、その光が強すぎるとき、闇は生まれる。
AIの最後の記録音が流れる。
《Phase-01終了。対象、情動安定。次段階“リンツ”への遷移を準備。》
雪がやんだ。
川面の光が、まるで記憶の底で瞬いているようだった