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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2129/2172

第82章 ブラウナウの光


 雪が光を吸い込むように、静かに降っていた。

 アドリアンの視界は、もう東京ではなかった。

 そこは1890年代、オーストリア=ハンガリー帝国の小都市ブラウナウ・アム・イン。

 薄い朝霧の向こうに、イン川がゆっくりと流れている。

 空気は透き通り、遠くで教会の鐘が鳴った。


 彼は小さな手を見た。

 その手は泥だらけで、指先に霜焼けができている。

 自分の声ではない、幼い少年の声が聞こえる。

 「……ママ?」

 その響きは、温かく、痛いほどに近かった。


 母クララの姿が現れた。

 白いスカーフを巻き、ストーブの火を整えながら振り返る。

 彼女の手の動きには、宗教的な優しさが宿っていた。

 「アドルフ、パンが焼けたわ。」

 声を聞いた瞬間、アドリアンの胸の奥で何かが溶けた。

 AI〈YAMATO-9〉の声が遠くで囁く。

 《感情波動、上昇中。あなたは今、“母の愛”の内側にいます。》


 アドリアンは頷こうとしたが、その行為自体がアドルフの動きと重なっていた。

 パンをちぎり、バターを塗る。

 木のテーブル、古びたランプ、壁の十字架。

 すべてが、彼の“世界のすべて”だった。


 だが、戸口の向こうから革靴の硬い音が響いた。

 「アドルフ!」

 父アロイスの低い怒声が空気を裂く。

 少年――いや、アドリアンの体が反射的に震える。

 恐怖ではない。

 それは、“秩序への即時服従”だった。


 アロイス・ヒトラー。

 その背中には、帝国官吏としての職務の重さが染み付いていた。

 軍帽の縁には雪がこびりつき、胸には銀の紋章。

 しかしその目は、国家の権威よりも古い、**“支配者の生理”**そのものだった。

 「この家では規律が法だ。感情など贅沢にすぎん。」

 彼の声は、まるで官報のように冷たく整っていた。


 家の中に彼が入ると、空気の密度が変わる。

 クララはそっと目を伏せ、息を殺す。

 アドルフは机の端に置かれた帳簿を見た。

 そこには赤いインクでびっしりと書かれた数字。

 税、関税、輸入品、国境――その全てが**「線を引くこと」**で成り立っていた。

 その線の向こうに、人が住んでいる。

 線のこちらに、秩序がある。

 父はその線を守る人間だった。

 少年の心に焼きついたのは、“権威への恐怖”ではなく、“線を支配する快感”だった。


 《観測:恐怖反応ではなく、同化反応。対象は父の支配を“世界の法”として内面化しています。》


 夜、クララはろうそくの明かりで聖母像に祈っていた。

 アドルフ――アドリアンはその横顔を見つめながら、奇妙な確信を得る。

 「母のように人を包む存在」

 「父のように人を従わせる存在」

 ――その両方を一人の人間が兼ねることはできるのだろうか?


 視界の端で、少年が描いた絵が見える。

 小さな鉛筆で、古城と太陽を描いている。

 そこには、静かな支配の美学があった。

 陽の光は柔らかく、だが世界のすべてを支配していた。


 クララが微笑む。

 「綺麗ね、アドルフ。」

 その声に包まれながら、アドリアンはふと理解した。

 ――この“優しさ”こそが、後の“狂気”の始まりだったのだ。


 世界はいつも、最初は光の形をしている。

 そして、その光が強すぎるとき、闇は生まれる。


 AIの最後の記録音が流れる。

 《Phase-01終了。対象、情動安定。次段階“リンツ”への遷移を準備。》


 雪がやんだ。

 川面の光が、まるで記憶の底で瞬いているようだった

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