第81章 AIの目覚め ― 記憶の実験
午前四時。
艦内の照明が一斉に青白く変わった。
金属の壁が微かに震え、遠くで重い電磁コイルが唸りを上げる。
その音が、まるで人間の呼吸のようにゆっくりと上下していた。
アドリアンは、半透明の生体接続椅子に横たわっていた。
頭部には20本近い神経接触端子が取り付けられ、皮膚の下では微弱な電流が走っている。
目を閉じると、視界の裏側に光が流れるのを感じた。
それは単なる映像ではなく、意識そのものが形を変えている感覚だった。
白井真菜博士の声が、ガラス越しの通信チャンネルから届く。
「脳波安定。α波優勢。呼吸浅い。――アドリアン、聞こえますか?」
「……はい。」
「これから〈YAMATO-9〉があなたの記憶領域に侵入します。抵抗しないで。」
AIの声が重なる。
《接続開始。神経同調率、上昇中……74%、81%、臨界域到達。》
アドリアンの意識が、静かに“内側へ沈んでいく”のを感じた。
現実の音が遠ざかり、代わりに古びたフィルムのようなノイズが頭の中で回転を始める。
《あなたの視覚皮質が、記録映像層と同期を始めました。》
「……記録映像層?」
《人類が残した“主観情報”です。あなたは、記録を見るのではなく――“記録そのものになる”。》
次の瞬間、全身を貫く衝撃。
色、匂い、気温、足元の感覚――すべてが変わる。
だがそのどれもが「誰かの記憶」であることを、身体のどこかで理解していた。
アドリアン:「これは……夢、じゃない?」
《いいえ。これは、夢より正確な現実です。》
YAMATO-9の声は、静謐で、どこか慈悲のような響きを帯びていた。
数分後、モニタリング室では白井博士と安西衛生士が神経データを見つめていた。
脳波パターンが通常のREM睡眠を越え、未知の振動数域へ突入している。
白井は呟く。「これは……時間軸の反転だわ。過去を“再生”しているんじゃない、過去が彼を再生している。」
AIが告げる。
《記録名:Phase-01 “ブラウナウ”。1890年、オーストリア帝国。》
アドリアンの身体が小さく痙攣した。
次の瞬間、彼の視界に雪に覆われた河岸の街が広がる。
冷たい風、教会の鐘、石畳の濡れた光――彼の目には確かに“現実”として映っていた。
YAMATO-9が補足する。
《あなたが見ているのは、過去の客観ではない。“彼”が感じた世界の内部構造です。》
――“彼”とは、アドルフ・ヒトラー。
しかしその名は、もはや「人物」ではなく、「認知構造」として再構築されている。
アドリアンが感じるのは、父の声、母の微笑、そして“孤立”の温度だった。
「……暖かいのに、冷たい。」
《それが“恐怖”の原型です。》
白井博士はモニターを凝視していた。
脳の前頭葉と扁桃体が同時に点滅している。
「恐怖と美意識が、同じ領域で反応している……。」
YAMATO-9の声が再び響く。
《この記録はあなたを壊すかもしれません。しかし、壊れなければ理解は生まれません。》
アドリアン:「壊れたらどうなる?」
《あなたが“彼”になる。》
時間が止まった。
モニターの心拍数が急上昇し、視界の奥で光が爆ぜる。
その光が形を持ち――幼い少年の影に変わる。
髪を撫でる母の手、火を囲む家族の影、そして遠くから響く父の怒鳴り声。
アドリアンは、確かにその少年の内側にいた。
AIが最後に呟く。
《Phase-01開始。対象:幼年期。感情指数、安定。――記録の扉を開きます。》
金属の光が消え、静寂が広がった。
アドリアンの呼吸がゆっくりと変わる。
彼の中に、別の人格の記憶が息を吹き始めた。