第80章 瓦礫の都市にて
波の跡が、まだ街の輪郭に残っていた。
四ヶ月前の津波で、東京の東半分は海へ沈んだ。湾岸のタワー群は鉄骨をむき出しにし、風に鳴る音だけが都市の呼吸のように聞こえる。
六月の陽は、再生と腐敗の境界を無慈悲に照らしていた。
アドリアン・ハルトマンは、膝まで泥に沈んだまま、折れた通信柱の根元を掘っていた。
ボランティア支援チーム〈リコンストラクト東京〉の臨時作業員。21歳。ドイツ・アウクスブルク出身。
来日前、彼はただの建築学生だった。戦争を知らず、災厄を知らず、それでも「失われた都市をもう一度設計したい」と願っていた。
その願いの現実は、腐敗した水と、沈黙した無線塔と、夜明けのたびに鳴る警報の連続だった。
瓦礫の上に座り、彼は顔を上げる。
遠くの海に、巨大な艦影が見えた。灰色の装甲をまとい、都市の残骸を背にして静止している――戦艦〈大和〉。
今ではそれが、東京復興の中心だ。
艦内には防衛省・復興庁・量子通信局の合同拠点が設置されており、内部に搭載された人工知能〈YAMATO-9〉が都市再建計画を指揮している。
人々はそれを「第九の頭脳」と呼び、畏れと期待を込めて見上げた。
その日の午後、アドリアンは復興庁技術課の技官から呼び出しを受けた。
「君のDNAに、特殊な共鳴反応がある」――理由はそれだけだった。
誘導ドローンに案内され、彼は半壊した国会議事堂を通り過ぎる。そこから地下連絡トンネルを抜け、〈大和〉艦内の研究区画へ。
艦の内部は、まるで生き物の体内のようだった。金属の壁面には冷却液が脈打ち、廊下の奥から低周波の振動音が伝わってくる。
入口で出迎えた白衣の女性が名乗る。
「白井真菜、環境工学部門の主任です。あなたの生体データ、AIが反応しました。」
アドリアンは意味がわからなかった。
だが彼女の目は、何かを確信しているようだった。
白井は言った。
「あなたの遺伝子配列に、ある“記憶構造”が存在します。YAMATO-9は、それを“開け”と言っています。」
アドリアン:「……開け?」
「ええ。過去の記録、もっと正確に言えば――ある人物の“主観データ”です。」
照明が落ち、壁面スクリーンに波紋のような光が広がる。
光は数式の形を取り、やがて顔の輪郭に変化した。
金属的な声が響く。
《識別完了。対象個体:ハルトマン・アドリアン。遺伝的共鳴率89.7%。起動許可。》
AI〈YAMATO-9〉の声だった。
それは人間の声ではなかったが、どこかに“情”の欠片があった。
《あなたの中に、眠っている記憶があります。それを再生することで、人類史の空白を補完します。》
「……どんな記憶だ?」
《記録名:アドルフ・ヒトラー》
時間が止まったようだった。
研究室の空気が沈黙に変わる。
アドリアンの心拍音が、金属壁に反響する。
白井博士が低く告げた。
「この世界が再生するには、“悪の記憶”も再構築しなければならないのです。」
アドリアンはしばらく言葉を失い、ただ艦窓の外の海を見た。
波の反射が光を裂き、沈んだ街の残骸を照らしていた。
「……僕の中に、彼がいるというのか?」
《正確には、あなたの神経構造が“彼”の記録と同調しやすい形に進化しています。》
アドリアンは呟いた。
「進化……なのか、それとも呪いなのか。」
AIは応えなかった。
ただ、次の指令を静かに告げた。
《明日午前四時、実験第零段階を開始します。あなたの“夢”が、最初の記録再生となるでしょう。》
艦内灯が落ち、外の海が青く光った。
津波の傷跡の上に、新しい記憶の扉が開こうとしていた。




