第79章 戸惑いと静かな再出発
「ねぇ、渡辺さん」
手品サークルの部室で、小林さんが新しいマジックの道具を手にしながら、渡辺さんに話しかけた。彼女の表情は、まだ少し戸惑っているが、その目は以前よりもずっと、何かを探しているように見えた。
「この本には、『戸惑い』は、日本文化ではどういう風に考えられてきたかって書いてありましたよね?それが気になって…」。
課長は、トランプを高く積み上げながら、二人の会話に耳を傾けていた。「そうね、私もそう思うわ。なんか、このモヤモヤ、日本人の心に響く感じがするのよね」。
渡辺さんは、本から顔を上げ、淡々と話し始めた。「はい。日本語の『戸惑う』は、**『門戸を見失う』**という言葉が語源です。つまり、帰る場所、あるいは価値基準を見失った状態を指します」。
「なるほど…。僕たち、イベントが終わって、何を目指せばいいのか、その門戸を見失っちゃったってことか…」と、主任が腕を組んで言った。彼は佐藤くんと、新しいマジックのタネについて話し合っていたが、その手を止めた。
伊藤さんが、静かに話を続けた。「さらに、この本では、『戸惑い』を、価値・秩序の再構築が始まる前の静かな混乱と捉えています。怒りや悲しみのように感情が爆発するのではなく、沈黙の中で思考がずれる瞬間。この『間』があるからこそ、人は本当に大切なものを見つけられる、と」。
「そうよ、それだわ!」と、課長は声を弾ませた。「私たちは、イベントの成功という『ゴール』に固執しすぎて、次の『ゴール』を見つけられなくなっていたのね。でも、この『戸惑い』のおかげで、一度立ち止まって、本当に何が大切なのかを考え直すことができたんだわ!」。
高橋さんが、冷静に言った。「その通りね。虚しさからくる絶望ではなく、次に進むための静かな探求。それが、戸惑いという感情なのかもしれないわ」。
「そう考えると、なんだかこのモヤモヤも、悪いものじゃない気がしてきました」と、小林さんが言った。彼女は、新しいマジックの道具をじっと見つめ、何かを思いついたように顔を上げた。
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「著者は、『戸惑い』を、**『世界が一瞬だけ、理解できなくなる。その空白のなかに、真の再生が始まる』**と定義しています」。
その言葉に、小林さんは力強く頷くと、新しいマジックの道具を使って、これまでとは全く違う、自由な発想でマジックを始めた。
サークルメンバーたちは、その様子を温かく見守った。彼らは、戸惑いという感情を通して、手品という遊びが、単なる技術やエンターテイメントではなく、自分たちの人生と向き合うための、大切なツールであることを再認識したのだった。