第78章 脳の再構築プロセス
「ねぇ、渡辺さん」
手品サークルの部室で、小林さんが新しいマジックの道具を前に、戸惑った表情で渡辺さんを見つめた。「私、この道具、どう使えばいいのか全然わからなくて…。なんか、頭の中が真っ白になるっていうか…」。
課長は、トランプを器用に高く積み上げながら、二人の会話に耳を傾けていた。「そうね、その『頭の中が真っ白になる』感じ、わかるわ。まるで、いつも使ってる道が、突然なくなっちゃったみたいよね」。
渡辺さんは、本から顔を上げ、淡々と話し始めた。「この本によると、その『頭が真っ白になる』状態こそが、脳の再構築プロセスそのものです」。
「再構築?」と、主任が驚いたように言った。彼は佐藤くんに、新しいマジックのタネを教えている最中だったが、その手を止めた。「僕たちの脳って、戸惑うことで、自分を新しく作り替えてるってことですか?」。
「はい」と、渡辺さんは答えた。「『戸惑い』は、脳が**『理解できない現実』に出会ったときに行う即時の再構築プロセスです。脳の前帯状皮質(ACC)**が、予測と現実の不一致を感知すると、海馬が過去の記憶を照合しようとします。しかし、当てはまる記憶がない場合、前頭前野が一時的にフリーズし、新しい判断を下そうとするのです」。
「うわあ…」と、佐藤くんは顔をしかめた。「僕、新しいマジックのタネを知ったとき、いつも『あれ?今までのやり方と違う…』って戸惑うんです。でも、それは、僕の脳が新しいことを受け入れようと頑張ってる証拠だったんですね」。
伊藤さんが、静かに話を続けた。「さらに、哲学的に見ると、『戸惑い』は人間的知性の入り口とされています。プラトンは『驚きは哲学のはじまり』と言いましたが、それは『驚きと戸惑い』が混ざった状態を指していると解釈されています。つまり、世界を理解できないという経験こそが、思考を生むのです」。
「なるほどねぇ…」と、課長は呟いた。「つまり、この戸惑いは、私たちを次のマジック、いや、次の人生へと向かわせるための、新しい知恵を生み出す魔法の瞬間ってことね!」。
高橋さんが、冷静に言った。「その通りよ。この本によると、『戸惑い』は、まだ自分と世界の関係を模索できる余地がある、ということの証拠。まだ諦めていないからこそ、戸惑うことができるのよ」。
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「**『戸惑い』は、思考と感情のあいだの『中間地帯』**です。この中間地帯で立ち止まることができるからこそ、私たちは、怒りや悲しみに囚われることなく、新しい道を探すことができるのです」。
小林さんは、じっと渡辺さんの話を聞いていた。そして、彼女は再び、新しいマジックの道具に手を伸ばした。彼女の顔は、まだ完全には晴れていないが、その手つきは、以前よりもずっと、探究心に満ちていた。