第77章 思考の空白と心の迷子
手品サークルの部室に、いつもとは違う静けさが漂っていた。皆、目の前のトランプやコインをいじる手を止め、宙をぼんやりと見つめている。先日、大きなマジックイベントを終えたばかりで、次に取り組むべき目標が見つからず、皆どこか宙ぶらりんの状態だった。
「なんか…変な感じですね」と、小林さんがポツリと呟いた。彼女は、新しいマジックの道具を手にしていたが、どう使えばいいのか分からない様子だ。「イベントが終わって、ホッとしたはずなのに…なんか、心の中がモヤモヤするっていうか…」。
「わかるわ」と、課長が言った。彼女は、手元のトランプをただ見つめている。「なんだか、次に何をすればいいのか、全然わからなくなっちゃったのよね。まるで、ゴールが見えないマラソンを走ってるみたいだわ」。
「それって、虚しいとも違うんですよね…」と、佐藤くんが首を傾げた。「虚しいは、ぽっかり穴が開いた感じでしたけど、今は、なんか、何をすればいいのか分からなくて、足がすくむっていうか…」。
「そうね、その感じ…まさにこの本が言う『戸惑い』ってやつかしら」と、高橋さんが静かに言った。彼女は、いつもは冷静だが、その言葉にはどこか共感の色が滲んでいた。
渡辺さんが、黙って読んでいた本から顔を上げた。彼女の表情は相変わらず無表情だが、その目がわずかに皆の方を向いている。「『戸惑い』は、感情の一種です」。
その一言に、全員の視線が渡辺さんに集まった。彼女が話すときは、なぜか空気がピンと張りつめる。
「え、これも感情なんですか?」と、小林さんは驚いた。
「はい」と、渡辺さんは淡々と答えた。「『戸惑い』は、一次感情ではなく、不安や驚き、困惑などが複雑に絡み合った、複合的・認知的感情に分類されます」。
「つまり、思考がフリーズして、感情が混線している状態…」と、伊藤さんが静かに解説を始めた。彼女は、博識で、いつも皆が知らないような専門知識を静かに披露する。「突然想定外のことが起きたとき、私たちは戸惑いますよね。それは、脳が危険を察知しつつも、それが何なのか理解できず、判断を停止させている状態なんです」。
「へえ…」と、主任が感心したように言った。彼は、マジックの練習で疲れた様子だったが、興味を引かれたようだ。「じゃあ、僕たちが今感じてるこのモヤモヤは、次に何をすればいいのか分からなくて、脳が一時的に止まっちゃってるってことなんですね」。
「その通りです」と、渡辺さんは頷いた。「『戸惑い』は、『わからない』ことへの生理的反応と、それを理解しようとする知的探求のはじまりでもあります。ただ怯えるのではなく、知の感情でもあるのです」。
「なるほどねぇ…」と、課長は呟いた。彼女はトランプをそっとテーブルに置き、メンバーたちを見渡した。「つまり、私たちは今、次のマジックへの『道』を見失っているだけってことね。でも、その『道』を探そうと、私たちの心が動き出しているってことだわ!」。
「なんだか、そう考えると、少しだけワクワクしてきました…」と、小林さんが言った。彼女の顔は、まだ完全には晴れていないが、その目には、少しだけ前向きな光が宿っていた。
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「著者は、日本語の『戸惑う』の語源は**『門戸を見失う』**だと述べています。つまり、帰る場所、価値基準を見失った状態です。この戸惑いから、新しい価値観や目標が生まれる、と」。
その言葉に、部室の空気は、不穏なものから、再び探求心に満ちたものへと変わっていった。