第76章 《戸惑う都市 ― 再起動の静寂》
――苛立ちの波が去って、東京は再び静かになった。
それは沈黙ではなく、戸惑いだった。
音が消えたわけではない。街は相変わらず動いていた。
発電所のディーゼル音、仮設ポンプの唸り、復旧トラックの走行音――
だが、それらの音にはもはや方向がなかった。
霞ヶ関の通信再生拠点。
矢代は地下制御室の中央で、再起動された光通信ルータのパネルを見つめていた。
モニター上では緑のランプが順に点灯し、数値上は「全系統復旧」を示している。
にもかかわらず、上層のネットワークに接続しても、何も応答が返ってこない。
ログのタイムスタンプはすべて同じ――“08:32:04”。
それは、津波が首都湾を呑み込んだ瞬間の時刻だった。
「信号は来てるのに、誰も受け取らない」
白井が呟く。
「誰かが故意に遮断してる?」
「違う。……誰ももう“送る”ことをしてない」
矢代の声には疲労がにじんでいた。
苛立ちの夜を越えた今、代わりに胸の中を満たしているのは――目的の喪失。
復旧作業の記録は完璧だった。
地下ケーブルはすべて再接続され、光ファイバーの損耗率はわずか1.3%。
街路の通信ハブも自律モードで稼働中。
“システム”は蘇っている。
だが、“都市”は沈黙していた。
岡部が制御盤の前で工具をいじりながら、ぼそりと言った。
「結局、何を繋いでんだろうな、俺たちは。
電線でも、水道でも、ガスでもねぇ。……“人”がいねぇ」
白井が顔を上げた。
「人はいますよ。ただ、まだ“声”を出せないだけです」
「声?」
「ええ。通信が戻るってことは、“言葉を取り戻す”ってことでしょう?
でも、何を言えばいいのか、誰も分からないんです。
今はただ――戸惑ってる」
矢代はゆっくりと視線を上げた。
壁のモニターに、東京湾沿岸の衛星画像が映し出されている。
津波で海に沈んだ地域は、まだ半分以上が水に覆われていた。
街路は海底のように光を反射し、沈黙しているビル群の輪郭だけが見えた。
「……見ろよ。海が電波を飲み込んでる」
岡部の声が低く響く。
「まるで、“水”が都市のメモリみてぇだな」
「その通りです」
白井が小さく頷いた。
「今、私たちがやってるのは“記憶の再読込”です。
でも、読み込む前に、誰がそれを“理解”するかを決めなきゃいけない」
「理解、ね……」
矢代は苦笑した。
「通信ってのは、データじゃなくて意味のやり取りだ。
意味を失った都市に、回線だけ戻しても、ただの空洞だ」
上階から微かな音が響いてきた。
地上の臨時アンテナが、風で軋む音だ。
夜の空気はまだ湿り、潮の匂いが混じっている。
白井は外に出て、アンテナの支柱に手をかけた。
触れると、わずかに温もりがあった――
まるで、都市の皮膚がまだ生きているようだった。
「……矢代さん、もしこの通信が完全に戻ったら、何が起こると思います?」
「何も起こらないさ」
「どうして?」
「“命令”も、“答え”も、もうない。
でもな――“問い”は残る」
その言葉に、白井はしばらく沈黙した。
風の音の向こうで、街の明かりが一瞬だけ瞬いた。
それは停電の再起動信号だった。
東京の北側ブロック――池袋方面。
復電範囲:わずか2キロ四方。
しかし、その微かな光が、彼女には都市が再び呼吸を始めた合図のように見えた。
「……誰かがスイッチを押した」
「いいことじゃねぇか」
「ええ。でも、誰が、何のために押したのかが分からない。
その“分からなさ”が怖いんです」
「それが戸惑いだ」
矢代の声が静かに響いた。
「怖くても、それを感じてるうちは、まだ人間だ。
何も感じなくなったら、ただの機械だ」
白井は空を見上げた。
雲の切れ間に、ひとすじの人工衛星がゆっくりと横切っていく。
軌道上通信中継衛星《SORA-12》。
津波後も稼働を続け、東京都の通信再構築に使われている。
それが夜空に放つ光は、どこか心臓の拍動に似ていた。
――生きている。
でも、どう生きるべきか分からない。
その**間**こそが、都市の戸惑いだった。
地上では、復旧班の無線が断続的に入る。
「北電ノード、信号確認」「バックアップ電源安定」「第三区復旧完了」
報告の声には熱も誇りもない。ただ“手順をなぞる音”だった。
矢代は静かに目を閉じた。
この都市は、まだ“意味”を探している。
再起動した機械たちの中で、人間だけが――答えを失ったまま動いている。
やがて夜が明けた。
霞ヶ関の上空を、再建中の送電線が鈍く光を反射した。
矢代は小さく呟いた。
「この沈黙は、終わりじゃない。……始まりだ」
白井が頷き、モニターに指を伸ばす。
再び“応答信号”が流れた。
> 《再送要求:東京統合ノード》
矢代は無言で応答をクリックした。
――光が流れた。
それは、意味を探す都市の最初の息のようだった