第73章 心の微熱
手品サークルの部室に、チリチリとした不穏な空気が漂っていた。原因は、小林さんの苛立ちだった。新しいマジックの練習中、何度やってもトランプが思うように揃わず、彼女は次第に口をきつく結び、眉間に皺を寄せ始める。
「もう…っ!なんで、こんな簡単なこともうまくいかないのよ!」
小林さんは、トランプを乱暴にテーブルに叩きつけた。その大きな音に、他のメンバーたちが顔を見合わせる。
「小林さん、どうしたの?そんなに怒って」と、主任が心配そうに尋ねた。
「怒ってるわけじゃないんです!ただ…なんか、ムカムカするっていうか…っ、どうにもならない感じが、すごく嫌で…!」
彼女の言葉に、部室の空気がさらに重くなる。誰もが、その感情に覚えがあるからだ。課長は、トランプを高く積み上げながら、小林さんをじっと見つめている。「あらあら、小林さん、ずいぶんご機嫌斜めねぇ。そのモヤモヤ、わかるわ。私もよく、そういう気分になるもの」。
「課長も、怒るんですか?」と、佐藤くんが恐る恐る尋ねた。
「怒るっていうか…なんていうか、そうね、ちょっとイライラするって感じかしら。でも、怒りとは違う気がするのよね…」と、課長は首を傾げた。
その様子を、高橋さんは冷静に見つめていた。「それは**『苛立ち』**という感情よ。怒りとは少し違う、もっと持続的で、対象がはっきりしない感情」。
渡辺さんが、黙って読んでいた本から顔を上げた。彼女の表情は相変わらず無表情だが、その目がわずかに小林さんの方を向いている。「高橋さんの言う通りです。『苛立ち』は、怒りとは別の、軽度の怒り・フラストレーション系情動として分類されます」。
その一言に、全員の視線が渡辺さんに集まった。彼女が話すときは、なぜか空気がピンと張りつめる。
「え、怒りじゃないんですか?」と、小林さんは驚いた。
「はい」と、渡辺さんは淡々と答えた。「『怒り』は、不当な扱いや侵害など、明確な対象に対して強い強度で生じる情動です。一方で**『苛立ち』は、思い通りにいかない状況や、漠然とした不快感など、不明確な対象に弱い強度で生じ、持続する情動**です」。
「なるほど…」と、小林さんは納得したように頷いた。「たしかに、誰かに怒ってるわけじゃないんです。ただ、なんか、全部がうまくいかなくて…」。
「つまり、小林さんは、目の前の状況に小さな『異物感』や『ノイズ』を感じて、それが心の中に積み重なって、微熱のような怒りになってるってことね」と、伊藤さんが静かに解説した。彼女は、博識で、いつも皆が知らないような専門知識を静かに披露する。
「うわぁ…なんか、すごく嫌な感じですね」と、佐藤くんが言った。「僕も、新しいマジックを覚えようとすると、途中で『もういいや』って投げ出したくなるんですけど、それも、この『苛立ち』ってやつなんですか?」。
「その通りです」と、主任が優しく言った。「この本にも書いてあるみたいに、『苛立ち』は、脳の防衛反応なんだ。外界の刺激が、僕たちの心の平穏を乱そうとするときに、脳が『これ以上は無理!』って信号を出してるんだよ」。
課長は、積み上げていたトランプを崩し、再びシャッフルしながら言った。「なるほどねぇ…。じゃあ、この『苛立ち』って感情は、私たちがまだ世界を諦めきれていない証拠ってこと?虚しさみたいに、静かに絶望してるんじゃなくて、まだ『なんとかしたい!』って心の残り火が燃えてるってことね!」。
その言葉に、小林さんの顔が少しだけ明るくなった。
「なんだか、そう考えると、少しだけ頑張れる気がしてきました…」
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「著者は、『苛立ち』を、**『完全な虚しさに至る前、人が「意味を取り戻したい」と無意識に抵抗している証拠』**と定義しています」。
その言葉に、部室の空気は、不穏なものから、再び前に進もうとする静かな熱気を帯び始めた。