第72章 《苛立つ街――沈黙の中のノイズ》
――通信が戻って、三日が経った。
霞ヶ関第1ノードの地下通信室では、冷却機の低い唸りと、モニターの電子音だけが響いていた。
だが、その静寂は、もう“平穏”ではなかった。
矢代は椅子に深く腰を下ろしながら、ふと自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。
端末上では、信号が順調に流れている。
復旧率98.6%。
ネットワークは理論上、完全に機能している。
――それでも、街は動かない。
市役所のデータベースは空白。
ニュースサイトは更新が止まり、SNSのタイムラインは三ヶ月前で凍りついたままだ。
まるで、世界全体が“電源を入れたまま”眠っているようだった。
「……なあ、これ、本当に“生きてる”のか?」
岡部が背もたれに体を預けて、天井を見上げた。
「通信だけ動いて、人間が動かねぇ。まるで幽霊都市じゃねえか」
「幽霊都市じゃない」
矢代は即座に答えたが、その声はどこか硬い。
「ただ……人の側の回線が、まだ繋がってないだけだ」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
端末のファンが、息苦しげに回転していた。
白井がそっとモニターを覗き込み、眉を寄せた。
「データ流量、また偏ってます。北側のノードだけ、異常に負荷が高い」
「復旧班が再起動を繰り返してるのか?」
「いえ……違います。誰かが、手動でパケットを流してる」
「誰か、って?」
「分かりません。発信元が特定できないんです」
矢代は立ち上がり、ラックに歩み寄った。
「遮断はするな。様子を見よう」
「でも、セキュリティ上危険です」
「構わん。……ようやく“何かが動いた”んだ」
その瞬間、ラックのLEDが一斉に点滅した。
通信波形が一気に乱れ、白いノイズが走る。
「なにこれ……!」
白井の声。
画面の中で、ログが滝のように流れた。
符号化された文字列が無限に連なり、意味を持たない情報の洪水がネットワークを満たしていく。
「誰かが――怒ってる」
ぽつりと大友が呟いた。
「怒ってる?」
「ええ。……人の言葉じゃない。でも、“苛立ち”のパターンです」
「そんなものが、データに出るのか」
「出ますよ。通信って、感情の集積です。無数の人が、苛立ちながら再接続を試みてる。
“なぜ繋がらない”“どうして届かない”――その繰り返しが、ノイズの波になってるんです」
矢代はモニターに顔を寄せ、乱れた波形を見つめた。
確かに、ノイズの中には規則性があった。
まるで心拍のように、一定のリズムで上下している。
都市の苛立ち――。
それは、言葉にならない“生の衝動”のようだった。
「通信ってのは、便利だと思ってたけどな」
岡部がぼそりと呟いた。
「便利すぎると、逆に腹が立つ。誰かが応えないってだけで、世界が止まる」
「止まってるんじゃない」
矢代は低く答えた。
「まだ、“言葉を選んでる”んだ。みんな」
「言葉を選ぶ?」
「虚しさのあとに残るのは、怒りじゃない。……苛立ちだ。
自分でも何に怒ってるのか分からない、あの“宙ぶらりん”な感情」
白井が目を伏せた。
「……それが、今の東京なんですね」
「そうだ。回線は繋がった。でも、まだ誰も“何を伝えるべきか”分かっていない」
地下の空気が重く沈む。
冷却機の音がやけに高く聞こえた。
矢代は息を吐き、ケーブルラックに背を預けた。
この三ヶ月、ただ繋ぐことだけを目標にしてきた。
それが叶った今――ようやく、何も成し遂げていないことに気づく。
「……結局、俺たちの仕事ってなんだろうな」
「繋げることですよ」
白井が静かに答える。
「たとえ苛立ちでも、感情が流れているうちは、生きてる証拠です」
矢代はその言葉に苦笑した。
「……そうか。苛立ちこそ、生命反応か」
「そう思います。
“何も感じない”のが終わりです。
“苛立つ”のは、まだ生きてるからです」
その瞬間、通信ログに新しい文字列が浮かんだ。
> 《応答遅延……再送要求》
「……これ、AIの自動通信ですか?」
「いや、違う」
矢代の声が少し震えた。
「これは――人間の入力だ。手動信号だ」
静まり返った通信室に、再びノイズが走る。
波形は先ほどよりもはっきりと脈打ち、やがて一定のリズムを刻み始めた。
> 《誰か、いますか》
白井が画面に指を伸ばす。
「……います」
短く答える。その指先が震えていた。
返信を送ると、数秒後に返ってきた信号。
> 《遅い、遅い、でも……まだ、生きてる》
その文字を見て、矢代は目を閉じた。
胸の奥で、何かが微かに疼いた。
苛立ち――。
それは怒りではなく、虚しさから再び立ち上がるための初期振動。
この都市が、再び“感情”を取り戻すための、最初のノイズだった。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、通信ラックのファンが一層大きく回転し、
その音が、まるで都市全体の呼吸のように、静かに響いていた。