第71章 悲しみと虚しさの違い
「ねぇ、渡辺さん」
手品サークル部室のソファで、小林さんが静かにトランプをいじりながら、渡辺さんに話しかけた。その手つきは、さっきまでの投げやりな感じはなく、どこか慎重だ。
「私、大会で優勝できなかったとき、悲しいって思ったんです。でも、大会が終わって、何もやることがなくなったときに、虚しいって思ったんです。悲しいと虚しいって、何が違うんですか?」
課長は、トランプを積み木のように高く積み上げながら、二人の会話に耳を傾けていた。「そうね、その違い、私もよくわからないわ。でも、悲しいときは、ワーッと泣いたりできるけど、虚しいときは、ただボーッとしちゃうのよね」。
渡辺さんは、本から顔を上げ、淡々と話し始めた。「この本によると、『悲しい』は対象を持つ感情です。例えば、大会で優勝できなかったこと、何かを失ったこと、といった具体的な対象があります」。
「なるほど…。じゃあ、虚しさには対象がないってことですか?」と、主任が尋ねた。
「はい」と、渡辺さんは答えた。「『虚しい』は、対象さえ消えた後の静かな余白にある感情です。悲しみが『あったものを失った』ときに生じるのに対し、虚しさは『何のために生きているのか分からない』ときに生じる感情です」。
「うわあ…」と、佐藤くんが顔をしかめた。「僕、この前、飼ってた金魚が死んじゃったときに、悲しかったんです。でも、大会が終わって、なんだか次に何をすればいいのかわからなくなったとき、すごく虚しかったです。そういうことだったんですね…」。
伊藤さんが、静かに解説を始めた。「この本では、文学的な視点から、この違いを説明しています。『怒り』や『悲しみ』は“動的な感情”であるのに対し、『虚しさ』は“静的な感情”です。特に終戦、喪失、復興、記録の断絶などを描く物語では、この『虚しさ』が非常に強い力を持ちます」。
「つまり、この本が書いている**『虚しさ』は、“思考の余韻”として残る感情**だということね」と、高橋さんが冷静に言った。「私たちが感情を言葉にし尽くしたあと、最後に残る“感情のない感情”が、虚しさなのかもしれないわ」。
「そうよ!」と、課長は声を弾ませた。「まるで、マジックのショーが終わった後みたいね!みんなを笑顔にできた喜びはあるけど、ショーが終わった瞬間に、ぽっかり穴が開いたみたいに虚しくなる。でも、その虚しさが、また次のショーへと向かう原動力になるのよ!」。
小林さんは、じっと課長の話を聞いていた。そして、彼女はそっと、テーブルに置かれたトランプに手を伸ばした。
「私、また、新しいマジックの練習を始めます!」
その言葉に、部室の全員が笑顔になった。彼女の顔は、まだ完全には晴れていない。でも、その目には、確かに新しい目標を見据える光が宿っていた。
渡辺さんは、そんな彼らの様子を静かに見つめながら、再び本に目を落とした。彼女の目には、ただ単に知識を得るだけでなく、その知識をどう生かすかという「魔法」が映っていたのかもしれない。