第70章 心の空洞と脳の活動
「ねぇ、渡辺さん」
手品サークル部室のソファに座っていた小林さんが、不安そうに渡辺さんへ問いかけた。手には何も持っておらず、ぼんやりと空を見つめている。
「私、さっきから、なんだか心にぽっかり穴が開いたみたいに感じるんです。これって、脳がどうにかなっちゃったんですかね…?」
課長は、トランプを高く積み上げては崩す遊びをしながら、二人の会話に耳を傾けていた。「私も、燃え尽きた後って、いつもそうなのよ。なんだか体が重くて、やる気が出ないっていうか…」。
渡辺さんは、本から顔を上げ、淡々と話し始めた。「この本によると、『虚しさ』は、単なる心理的反応ではなく、『意味』や『価値』を司る神経系が沈黙した状態に近いとされています」。
「神経系が沈黙?」と、主任が驚いたように言った。彼は佐藤くんに新しいマジックを教えている最中だったが、その手を止めた。「僕たちの脳って、そんな風になっちゃうんですか?」。
「はい」と、渡辺さんは答えた。「虚しさを感じるとき、脳の**『内側前頭前野』の活動が低下します。この部分は、自己と世界の関係を意味づける役割を担っています。この活動が低下すると、『意味喪失感』**が強くなるのです」。
「うわあ…」と、小林さんは顔をしかめた。「やっぱり、私、意味を失くしちゃったんだ…」。
伊藤さんが、静かに話を続けた。「さらに、**『島皮質』**も関わっているとされています。この領域は、身体的な内部状態を認知する場所で、虚しさによって引き起こされる身体的な『空虚感』や『重さ』と関連があると考えられます」。
「ああ、わかる!」と、課長がポンと手を叩いた。「そうよ、この体が重い感じ!まるで、魂が抜けてしまったみたいに感じるのよね!」。
「僕も、そういう感じがします…」と、佐藤くんが言った。「マジックの練習をしようとすると、体が重くて、全然動かないんです…」。
「それは、**『前帯状皮質』**の働きにも関係しています」と、渡辺さんは続けた。「この領域は、感情的葛藤の処理や、目標への動機付けに関わっています。目標が喪失すると、この部分が活性化し、どうすればいいか分からない、という葛藤が生じるのです」。
「なるほど…。まるで、脳が道に迷って、右も左も分からなくなっちゃったみたいだね」と、主任が言った。
「そうよ、そうよ!」と、課長は声を弾ませた。「まるで、道に迷った魔法使いみたいね!でも、魔法使いなら、地図がなくても、自分の足で道を探せばいいじゃない!」。
「でも…」と、小林さんが不安そうに言った。「私、何をしたらいいか、分からないんです…」。
高橋さんが、静かに頷いた。「この本が言っているのは、『虚しさ』は悪いものばかりではない、ということよ。仏教では、虚しさ、すなわち**『空』**は、執着からの解放を意味する。私たちが執着していた『目標』や『結果』から離れることで、新しい何かを見つけるきっかけになる、と」。
「そうですね」と、伊藤さんも同意した。「実存主義哲学では、『虚しさ』は、世界が自分の望む意味を返してくれないときに現れる**『不条理の発見』**とされています。この発見が、私たちを次の行動へと駆り立てる原動力になる、と」。
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「つまり、この『虚しさ』は、私たちが当たり前だと思っていた『意味』や『価値』を再評価するための、**心の『空白』**なのです」。
その言葉に、小林さんは、少しだけ顔を上げた。まだ不安そうな顔だが、その目には、少しだけ光が宿っていた。
「空白か…」と、彼女は呟いた。「じゃあ、私、この空白に、また新しい手品のタネを探しにいってもいいのかな…」。
課長は、笑顔で言った。「もちろんよ!だって、手品は、何もないところから、新しい魔法を生み出すものじゃない!さあ、みんな、新しい魔法のタネを探しにいきましょ!」。
その声に、部室の空気が再び温かさを取り戻した。