第69章 意味の喪失と心の空洞
手品サークルの部室は、いつもより静かだった。週末の大会を終え、誰もが少し燃え尽きたような、ぼんやりとした時間を過ごしている。
「あーあ…終わっちゃったね、大会」
小林さんが、手に持った花のマジックの道具を、力なくテーブルに置いた。彼女の表情は、いつもは元気で明るいのに、どこか寂しげだ。
「うん、終わっちゃいましたね」と、佐藤くんもぼそっと言った。「優勝はできませんでしたけど、僕、新しいマジック成功させたんですよ。でも、なんか、終わった途端に…なんだか、虚しくなっちゃって…」。
その言葉に、部室の空気がさらに沈む。課長は、トランプをシャッフルする手を止め、二人の顔をじっと見つめた。「あら、二人ともどうしたのよ。寂しいのはわかるけど、そんなに落ち込まなくてもいいじゃない」。
「寂しい、とはちょっと違うんです…」と、小林さんが首を振った。「大会に向けて、毎日一生懸命練習して、辛いこともたくさんあったけど、それでも頑張れたんです。でも、いざ終わってみると、次に何をすればいいのかわからなくて…。なんだか、ぽっかり穴が開いたみたいで…」。
「そうね、その気持ち、わかるわ」と、高橋さんが静かに言った。「目標が消えた後って、そういうものよね」。
渡辺さんが、黙って読んでいた本から顔を上げた。彼女の表情は相変わらず無表情だが、その目がわずかに小林さんの方を向いている。「それは**『虚しさ』**という感情です」。
その一言に、全員の視線が渡辺さんに集まった。彼女が話すときは、なぜか空気がピンと張りつめる。
「虚しさ…」と、主任が繰り返した。「寂しいとか悲しいとか、そういうのとは違うんですか?」。彼は、大会で成功したマジックを再び練習していたが、その手を止めた。
「違います」と、渡辺さんは淡々と答えた。「心理学的には、『虚しさ』は自己評価的感情や存在的感情に分類されます。何かを失ったときに『悲しい』のではなく、その『失ったことに意味が見いだせない』ときに生じる感情です」。
「そうか…」と、佐藤くんが呟いた。「僕、大会のためにマジックを頑張ったけど、結局、何のために頑張ったのか、わからなくなっちゃったんです…」。
「つまり、目標を達成したことで、目標があったときの『意味』を失ってしまった、ってことね」と、課長が言った。彼女は、新しいトランプの束を手に取り、それを眺めている。「うーん、なんか、すごい哲学的な話ね…」。
「その通りです」と、伊藤さんが静かに解説を始めた。「『虚しさ』は、『生きることの意味』や『世界との関係』への感受性から生じる、高次の感情とされています。哲学的に言えば、存在の空洞を感じる感覚です」。彼女は、博識で、いつも皆が知らないような専門知識を静かに披露する。
「うわあ…なんか、すごい話になってきましたね…」と、小林さんは顔をしかめた。「私、ただ、ぽっかり穴が開いたって言いたかっただけなのに…」。
「でも、そのぽっかり穴が開いた感じこそが、この本の言う『意味の喪失』なんだと思うわ」と、高橋さんが言った。「私たちは、何かを成し遂げたとき、その行為に意味を見出す。でも、その行為が終わりを迎えると、その意味も一緒に消えてしまったように感じてしまう。だから、虚しくなるのよ」。
渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「著者は、『虚しい』は対象さえ消えた後の静かな余白にある感情だと述べています。悲しみは対象を持つが、虚しさはそうではない」。
その言葉に、全員が沈黙した。大会という対象が消えた後、彼らの心に残ったのは、寂しさでも悲しみでもなく、何かをやり遂げたはずなのに満たされない、静かな虚しさだった。
「なるほどねぇ…」と、課長は呟き、トランプをテーブルに置いた。「私たちの心は、次から次へと新しい目標を探して、意味を見出そうとするんだ。まるで、新しいマジックのタネを探し続ける私たちみたいにね」。
彼女の言葉に、部室の空気が少しだけ和らいだ。